クーデターと改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/09 08:22 UTC 版)
「デンマークの歴史」の記事における「クーデターと改革」の解説
農業改革を推進し、「土地緊縛制度」を廃止したフレゼリク王太子(後のフレゼリク6世、画像左)と彼を支えたA.ベアンストーフ。 1766年に後を継いだクリスチャン7世は精神疾患を病んでいたことから国政につける状況ではなかった。旅行中に知り合ったドイツ人医者のヨハン・フリードリヒ・ストルーエンセが実権を掌握した。彼は啓蒙主義の影響を受けており、デンマーク旧来の慣習にとらわれない上からの改革を実施したことはデンマーク国民の反発を招いた。また、クリスチャン7世の妃であるキャロラインとストルーエンセの不倫関係も憤慨のもととなった。結局、1772年に宮廷クーデターが勃発し、ストルーエンセは失脚、処刑となった。その後、オーヴェ・ヘー=グルベア(英語版)が1784年まで政権を掌握したが、その実態は農業改革に消極的、重商主義政策の拡大といったものだった。また、デンマークはアメリカ独立戦争に対しエカチェリーナ2世が提唱した武装中立同盟に参加、中立の立場を生かし、貿易・海運業は盛んとなったものの、産業の育成は芳しくなかった。1780年にはグルベアは、重農主義政策を推進しようとしたA.ベアンストーフを左遷した。結局、1784年に王太子フレゼリク(後のフレゼリク6世)が宮廷クーデターを実行し、グルベアを追放し政権の座を握った。尚、1773年にホルシュタイン公パーヴェル(後のロシア皇帝パーヴェル1世、ピョートル3世とエカチェリーナ2世の息子)はホルシュタインの土地をデンマークに返還したことでデンマークを煩わせたシュレースヴィヒ、ホルシュタインからの外交、軍事問題は一定の解決を見た。 政権を掌握したフレゼリク王太子は、啓蒙主義に触れて改革を支持するドイツ系貴族のA.ベアンストーフ、クリスチャン・レーヴェントロウ、アーンスト・シメルマン(英語版)等を登用した。レーヴェントロウが行おうとした「農民改革」は地主の反発を受けるもだったが、最終的にはフレゼリク王太子が実行を支持、1786年に「農民大委員会」が設置され、改革のための法案作成と改革事業が開始された。その結果、「農民大委員会」は地主と小作人の法的関係と両者の権利及び義務を明確化、次いで1788年には「土地緊縛制度」が廃止されることとなった。1789年に発生したフランス革命は支配者階級に、支配体制の崩壊の恐れを抱かせた。そのため、地主と政府は、1799年、農民改革で残されていた課題である賦役については地主寄りで解決策を図った。このほか、フレゼリク王太子治世下では、1792年に奴隷貿易の廃止が決められるが、西インド諸島の砂糖プランテーションに黒人奴隷を利用していたことから、法律運用は10年後の1802年であったことから、この期間中に限定して、奴隷貿易が奨励された。
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