クーデターとカンボジア侵攻、内戦の激化
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 07:38 UTC 版)
「ポル・ポト」の記事における「クーデターとカンボジア侵攻、内戦の激化」の解説
アメリカ合衆国は、シハヌークが南ベトナム解放民族戦線を支援していると見なしてロン・ノル将軍を支援した。その結果、1970年3月18日にロン・ノルはクーデターを起こし、シハヌークを追放した。中華人民共和国からの支援を受け、北京に亡命したシハヌークは、挽回を図りポル・ポトと接触した。元々クメール・ルージュとシハヌークは不倶戴天の敵であったが、ここに共闘関係が生まれた。ポル・ポトは元国王の支持を取り付けることで、自らの正当性を主張できると考えた。 同年アメリカ合衆国大統領リチャード・ニクソンは、南ベトナムと隣接する解放戦線の拠点を攻撃するためにカンボジア国内への侵攻を許可した。以後アメリカ軍とカンボジア軍はコンポンチャムなどの都市や農村部に激しい空爆を行ったため、農村インフラは破壊され数十万人が犠牲となり、米軍の爆撃開始からわずか1年半の間に200万人が国内難民と化した。また、ロン・ノル政権は汚職が蔓延し都市部しかコントロールできなかったため、シハヌークの人気とアメリカ軍によるカンボジア爆撃は、クメール・ルージュへの加入者を増加させ、ポル・ポト派の勢力拡大に有利に働いた。 また、食糧生産も大打撃を受けた。1969年には耕作面積249万ヘクタールを有し米23万トンを輸出していたカンボジアは、1974年には耕作面積5万ヘクタールとなり28万2000トンの米を輸入し、米の値段は1971年10リエルから1975年340リエルにまで急騰した。1971年アメリカ会計監査院の視察団はカンボジアの深刻な食糧不足を報告している。 こうした状況のなか、都市部はアメリカからの食糧援助で食いつなぐことができたが、援助のいきわたらない農村部では大規模な飢餓の危機が進行しつつあった。ベトナム戦争の不安定化、特に「ベトナムの聖域を浄化する」アメリカ軍のカンボジア猛爆がなければクメール・ルージュが政権を獲ることもなかったであろうという考察もある(ウィリアム・ショークロスの1979年の著書『Sideshow』がこの点に触れている)。
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