クーデターとマフディー&ウンマ党政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 15:36 UTC 版)
「第二次スーダン内戦」の記事における「クーデターとマフディー&ウンマ党政権」の解説
1985年初め、ハルツームは燃料とパンの深刻な不足に見舞われ、南部では戦闘が拡大し、旱魃と飢饉の中、難民が増えていった。ヌメイリが不在の4月の初めに、最初はパンと他の主要製品の値上げによって引き起こされた、大規模なデモがハルツームで起きた。4月6日、アブドッラフマーン・スワール・アッ=ザハブ将軍率いる軍の上級将校が、クーデターを起こした。新政権の最初の行為は、1983年の憲法の停止と、スーダンをイスラーム国家にする意向を宣言した命令の取消し、ヌメイリのスーダン社会主義連合の解散だった。しかし、シャリーアの導入を決めた「9月法」と呼ばれる法律は停止されなかった。15人の暫定軍事評議会メンバーが指名され、ザハブが議長となった。「集会」として知られる政党と労働組合と職業組織の非公式の会議との協議により、評議会はアル=ジャズーリ・ダファアッラー博士を首相とする臨時の文民内閣を指名した。 1986年4月に選挙が行われ、軍事評議会は公約通り民政移管した。ウンマ党のサーディク・アル=マフディー(英語版)を首相とし、民主統一党 (DUP)、民族イスラム戦線(NIF, ハサン・トラービー)と、いくつかの南部の政党が連立した。この連立は、数年にわたって数回解散と改造を繰返したが、マフディーとウンマ党が常に中心となった。
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