クーデターとアングロ・イラク戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 01:23 UTC 版)
「イラク王国」の記事における「クーデターとアングロ・イラク戦争」の解説
1939年に第二次世界大戦が始まり、枢軸国がイギリスやフランスなど連合国を圧倒する中、枢軸国と結んで英国支配を覆すという希望がイラクの政治家に広まった。1939年9月5日、イラクは1930年の条約に基づきナチス・ドイツと国交を断絶した。しかし1940年には反英派のラシード・アリー・アル=ガイラーニー(英語版)(Rashid Ali al-Gaylani)が首相となり、ドイツやイタリアと結び、石油などの資源を枢軸国に供給しようとした。彼らはイラクに長年住んでいたユダヤ人社会に対する暴動を組織したほか、王室側近から親英派を追い落とそうとした。しかし北アフリカ戦線でのイギリスの勝利により彼らは後ろ盾を失い、1941年1月末にはハーシム家のイラク王即位以来政治力を持っていた親英派のヌーリー・アッ=サイード(Nuri as-Said)が首相に返り咲いた。 1941年3月末、軍首脳のアラブ民族主義者4人組「ゴールデン・スクエア(英語版)」が決起し、ヌーリー・アッ=サイードは退陣させられ、4月3日にはラシード・アリー・アル=ガイラーニーが首相となった(1941年イラク政変(英語版))。王政は転覆されなかったが、アリー・アル=ガイラーニーは親英派の摂政アブドゥル=イラーフ('Abd al-Ilah)を追放してシャリーフ・シャラフ(Sherif Sharaf)を摂政とし、1930年のイギリス・イラク条約でイラクがイギリスに認めた特権を制限しようとした。 これに対し、カイロのイギリス陸軍中東司令部はヌーリー・アッ=サイードを保護し、イラクへの侵攻を開始した(アングロ=イラク戦争)。4月18日にはインド派遣軍の1個旅団をバスラに上陸させ、パレスチナとヨルダンからも砂漠を横断する部隊を進撃させた。バグダード西方のハッバニーヤにはイギリス空軍のハッバニーヤ基地があり、イギリス空軍とインド軍が入ったが、4月30日に6,000人からなるイラク軍部隊が南の高地に陣取り、基地に対し陸空の戦力を動かさないよう要求した。英印軍はこれを拒否し、要求の期限となる5月2日早朝にイラク軍に対する爆撃を開始した。 イギリス軍の戦力は旧式訓練機など貧弱であり陸軍も人数は2,000人と劣勢だったが、増援の到着もありイラク軍を押し返しバグダードへの進軍を始めた。ドイツ軍はイラク軍に対して、ヴィシー・フランス領シリアから航空機を派遣するなどの支援を行ったが、イラクの航空部隊は戦力を失い、5月30日にはバグダードに入ったイギリス軍とイラク側は休戦し、アル=ガイラーニーはドイツへ亡命した。ほぼ1ヶ月にわたる戦争で再度イラクを占領したイギリス軍は引き続き、6月・7月にはシリアに対する作戦を、8月から9月にはソ連とともに、枢軸寄りだったイランに対する進駐を行った。しかし、これでイラク国民の反英気運が無くなったわけでは無かった。イギリスのイラク占領は1947年10月26日まで続いた。
※この「クーデターとアングロ・イラク戦争」の解説は、「イラク王国」の解説の一部です。
「クーデターとアングロ・イラク戦争」を含む「イラク王国」の記事については、「イラク王国」の概要を参照ください。
- クーデターとアングロ・イラク戦争のページへのリンク