クーデターによる拘束
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 23:23 UTC 版)
「フアン・ペロン」の記事における「クーデターによる拘束」の解説
アメリカによる圧力と、ドイツと日本の劣勢を受けて、最終的にアルゼンチンは連合国側として形だけの参戦を行ったものの、第二次世界大戦終結後アメリカとアルゼンチンの関係は決定的に悪化した。終戦により、アメリカが牛肉などの資源供給先かつ新たな連合国の一員としてアルゼンチンに対してこれ以上気を配る必要はなくなり、実際にアメリカの駐アルゼンチン大使のスプルーレ・ブレイドンは公然とペロンを批判し、さらに1945年10月17日にはアメリカが後押ししたエドゥアルド・アバロス将軍による軍事クーデターにより一時拘束された。 しかし親ペロン派の軍人たちや、ペロン支持を決議したCGTのゼネスト、そしてペロンの釈放を求めて五月広場に大挙した労働者達による後押しを受けて、後に2番目の妻になる元女優のエバ・ペロン(エビータ)が、国民にラジオでペロンの釈放を訴えたことなどによりクーデターは数日間で失敗、釈放された。
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