クーデターによる最期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 07:31 UTC 版)
1937年(民国26年)の日中戦争勃発後の当初は、石友三も抗戦に従事する。翌年2月に第69軍軍長、5月に第10軍団軍団長に任ぜられる。12月に冀察戦区副司令兼察哈爾省政府主席となった。 第2次国共合作が成立していたにもかかわらず、石友三は反共姿勢を鮮明にし、八路軍への攻撃・圧力を強めた。しかし1940年(民国29年)2月、八路軍の反撃を受けて山東省曹県に逃げ込む。その後、日本軍から河北省省長等の地位を提示されると、石友三は日本への投降を画策した。 しかし同年12月1日、蔣介石の秘密命令を受けていた石友三配下の新8軍軍長高樹勲は、濮陽で石友三に対して兵変を起こしてこれを捕えた。石友三は、その叛服常なき有り様から「倒戈将軍」と呼ばれ、また、生埋めなど残虐な処刑を好んだことから「石閻王」とも呼ばれていた。しかし、その石友三もまた、捕えられたその日の夜に、高樹勲により生埋めの刑に処せられたのであった。享年50。
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