クーデターに至る経緯
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/20 23:39 UTC 版)
変法は、あまりに急激で全般的な改革であったために、改革に対し周囲から危惧・懸念の声が相次いだ。もともと改革は、それを実行するだけの財政的基盤に欠けた机上の空論的な性格を有し、それだけで批判を招きやすいものであったが、それ以上に批判の背後には、改革の進行によって手放さざるを得なくなる政治的主導権や既得権益に対する危機感があった。すなわち批判の急先鋒たる西太后や栄禄らの眼には、康有為らが導入を目指す憲法や議会制度は、自らの政治的フリーハンドに著しく掣肘を加えるものとして映じたであろうし、明治日本に倣った官庁の統廃合は官僚の頭数の整理でもあるため、官僚層の猛烈な反発を招くものであった。 また指導者であった康有為が、決して正統な経学とはいえない今文公羊学を改革の思想的バックボーンとしていたことも孤立を招いた一因である。今文公羊学は改革思想の基盤となりやすい経学ではあったが、康有為の思想はさらにそれを先鋭化させたものである。たとえば孔子は周公旦の作り上げた制度を正しく伝えたのではなく、むしろ政治改革者であり、六経に記述されたものは孔子が周公旦に仮託して創造した政治制度であるという主張(『孔子改制考』)や、黄金時代を三代とする尚古思想を批判し、拠乱世-升平世-太平世と順次発展していくとする発展史観(大同三世説)をとなえる主張等、どれも伝統的な考え方と一線どころか二線も三線も画す思想であったといえる。まさしく当時としては異端であり、「離経叛道」(経典から乖離し道に悖る)と誹られるのも無理からぬことであった。 さらに改革を志すグループが孤立化した原因として、変法の中心的存在であった康有為自身の性格も大きく作用したことも見逃せない。彼の自信に満ちあふれた態度は改革の断行にあたって光緒帝を変法側に引きつけるなどプラスにも働いたが、反面頑固に自らの変法路線をいささかも変えようとしなかったために周囲との融和を難しくし、いたずらに反対派を増やす原因ともなった。その端的な例が、当初変法に好意的であった両江総督劉坤一や湖広総督張之洞・孫家鼐の離反である。彼らは、康有為らの今文公羊学に眉を顰めながらも、それについては一旦棚上げして変法に賛同したのであるが、京師大学堂の教育内容や孔子紀年をめぐって次第に対立を深めていくようになる。対立の深化につれて、康有為一派との差別化を鮮明にする必要を感じたため、張之洞は中体西用的改革思想の集大成ともいえる『勧学篇』を急遽刊行し、その中で康有為たちを厳しく非難している。 変法開始冒頭に、光緒帝の家庭教師でもあり、且つ改革を背後から支えていた総署大臣翁同龢が、西太后によって無理矢理解職・引退させられていることからも明らかなように、康有為たちはもとから政治的に劣勢であった。それに加えて、在京・地方の大官たちが変法から距離を置くようになれば、康有為たちと西太后ら一派との権力バランスが一気に崩れるのは火を見るより明らかであったといえよう。光緒24年の陰暦7月・8月の時点では戊戌変法の破綻は誰の目にも時間の問題として捉えられていたのである。
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