クーデターによる政権奪取
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「アンドリー・ラジョエリナ」の記事における「クーデターによる政権奪取」の解説
詳細は「マダガスカル・クーデター」を参照 ラジョエリナはラヴァルマナナへ猛反発し、応戦の構えを見せた。そしてラヴァルマナナはラジョエリナをアンタナナリボ市長から解任させ、これがきっかけとなってラヴァルマナナへの批判は一層高まった。更に、ラヴァルマナナの公金横領疑惑が積み重なり、ラジョエリナは大統領宮殿の占拠を試みたものの、2月7日に治安部隊の銃撃を受け失敗。3月16日にマダガスカル軍と共に大統領宮殿を占拠し、これを受けラヴァルマナナは大統領を辞任し、マダガスカル軍へ実権を譲渡した。ラヴァルマナナの大統領辞任を受け、新しく元首の座にラジョエリナが就任した(役職名は高等暫定統治機構議長)。この暫定政権は、2014年1月のラジャオナリマンピアオナ大統領就任式まで継続した。また、マダガスカルの法律には40歳以上でなければ大統領に就任は出来ないとされているが、今後憲法を改正すると公表している。 憲法に則らない軍事的なクーデターによる政権奪取について、内外から反発が続出し、アフリカ連合(AU)や南部アフリカ開発共同体(SADC)はマダガスカルを加盟停止処分にしたうえで、早い段階から事態の正常化と政局の安定化を勧告。2011年からはSADC主導で、政治危機打開に向けたロードマップを策定した。ラジョエリナは早い段階で大統領選挙を実施することを表明し、同ロードマップ履行にも徐々にではあるが進展が見られた。2013年5月に同国の特別選挙法院は41名からなる大統領選挙全立候補者リストを発表したが、AUとSADCはこのうち国民の反感が強く対立を煽りかねないラジョエリナ暫定大統領、ララオ・ラヴァルマナナ(マルク・ラヴァルマナナ前大統領夫人)、それにラツィラカ元大統領の3人の立候補を問題視し、要件を満たさない違法な立候補だとして批判した。AUやSADCを中心とする国際コンタクトグループの調停の結果、7月に予定されていた投票は延期され、特別選挙法院はリストを見直し、8月に違法な立候補者を排除した最終候補者リストを発表。ラヴァルマナナ前大統領側はジャン・ルイ・ロバンソン元保健相を、ラジョエリナ暫定大統領側はヘリー・ラジャオナリマンピアニナ財政・予算相を事実上の代理候補とする形で擁立した。こののち全候補者による10月25日の第1回投票、上位2名の候補者(1位ロバンソン、2位ラジャオナリマンピアニナ)による12月20日の第2回投票を経て、ラジャオナリマンピアニナが当選。1月25日の就任式でラジャオナリマンピアニナ大統領が正式に就任し、ラジョエリナは退任した。
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クーデターによる政権奪取
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「細川政権 (戦国時代)」の記事における「クーデターによる政権奪取」の解説
「明応の政変」を参照 応仁の乱の最中、細川氏本家京兆家当主で室町幕府管領として大きな力を持っていた細川勝元が死去し、このことを受けて嫡男の政元が後を継いだ。とは言え、政元はまだ7歳であり実際には後見である細川政国(典厩家)が主宰し、内衆の中から選ばれた評定衆による合議によって方針が定められた。内衆とは細川京兆家直属の家臣のことで、室町幕府の奉行衆を模した行政官的な役割を果たす人々であった。応仁の乱によって自領の経営が危なくなった斯波氏・畠山氏などの有力大名は京都を離れて領国に帰還したが、細川京兆家の領国は摂津・丹波・土佐と、土佐を例外とすればいずれも京都周辺であり、細川氏分家・庶流の領国も和泉・備中・讃岐・阿波と比較的京都に近い国が多かった。そのため、京兆家以下の当主は京都にいたまま、内衆を守護代や代官として派遣することで現地の統制を行うことが可能であり、常に幕府の運営に直に関与できる強みを有した。反面、京都の情勢の影響を常に強く受け続けることになった。 政元は長享3年(1489年)に9代将軍足利義尚が陣没して将軍継嗣問題が起こると、次期10代将軍に義尚の従兄の天龍寺香厳院主清晃(堀越公方足利政知の子で後の足利義澄)を推していたが、義尚の叔父足利義視や元管領畠山政長との政争に敗れて義視の子で義尚の従弟である義材(後の義稙)が10代将軍に擁立された。 延徳3年(1491年)1月に義視が死去すると、幕政は畠山政長によって独占されることとなった。明応2年(1493年)2月、政長は河内平定のため、将軍義材を擁した幕府軍を率いて畠山義豊(応仁の乱時の政長の宿敵畠山義就の子)を攻めた。そしてこの遠征中に、京都の留守を任されていた細川政元は十分な根回しのもと日野富子・伊勢貞宗と結託してクーデターを決行する(明応の政変)。4月に清晃を京都にある自邸に招き入れ、実質的に11代将軍足利義高として擁立したのである。 一方、河内にあった幕府軍は京都の政変を知ると動揺して離反が相次ぎ、義材の奉公衆も富子と貞宗の勧告で多くが義材を見捨て帰京、政元は討伐軍を送り義材は丹波守護代の上原元秀に捕縛されて京都龍安寺に幽閉され、畠山政長は自害した。こうして政元は将軍を傀儡として擁立することで、細川政権を成立させたのである。この政権は細川京兆家当主の官位・右京大夫の唐名から、「京兆専制」とも呼ばれる。
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