分家・庶流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/10 14:00 UTC 版)
能勢七郎右衛門の弟・兵右衛門重信は、初代長岡藩主・牧野忠成が死去にあたってその願い出により殉死を許された。家督をついだ2代目には、父の殉死の褒美のためか230石に増知となる。3代目のときに200石となったが、貞享2年(1685年)不正行為が発覚して改易となった。後に先祖の筋目のある者を帰参させ30石で家名再興が許されやがて100石となった。その直系子孫は、20石・その後一時、家格以上の役職に就任したためか、40石加増され、合計160石となり、世襲家禄を120石とした。この家を能勢右仲家または、能勢源五右衛門家などと呼び、能勢姓の長岡藩士としては、二番目の家格であった。 また総領家の能勢氏は、享保2年(1717年)第5代長岡藩主・牧野忠周の子供の養育係就任に伴いその庶子・能勢喜内が小姓として召し出された。新恩100石をたまわり別家を立てた。能勢氏はこのように財政が厳しくなってきた江戸時代後期の享保年間に、2戸の別家を立て大組入りさせることができた。 享保5年(1720年)に、能勢源五右衛門家の次男の能勢玄格(玄伯とあるのは誤り)は、10人扶持で召し出された後に、段々立身・加増されて130石となった。その家督を相続した能勢丈元は自殺をしたため断絶となるも、70石・大組入りで家名再興となった。孫の代に10石減知となり60石でありながら、大組入りを許されていた。このほか能勢源五右衛門家には微禄の末家1戸がある。先法家の能勢氏は、末家の家禄まで累計すると、この頃にはおよそ950石余(総領家分は600石)であった。 長岡藩の支藩には、有力な能勢姓の藩士は存在しない。 また長岡藩には、先法家の能勢氏と異なる出自を持つ、儒者として召し出された能勢忠兵衛剛美を祖とする能勢彦之進家(100石級)と、近江膳所藩士から移籍した野瀬氏(100石級)がある。
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