分家・与板藩主家(兵部少輔家)
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「井伊氏」の記事における「分家・与板藩主家(兵部少輔家)」の解説
井伊直政の長男直勝は表向きは病弱だったとされ、幕命により本家を弟に明け渡す形となった。直勝は亡父直政の官名「兵部少輔」を襲ったが、この系統の家臣はまた小野氏等の戦国期以来の井伊氏譜代が多かったと伝わる。安中藩から西尾藩、掛川藩と転封されたが、直勝の曾孫である掛川藩主直朝の時に発狂を理由に改易となった。 しかし、宗家(掃部頭家)から直興(直該)の四男直矩(直朝の妻の兄弟)を迎えて家名再興存続が許され、無城主格2万石の越後与板藩主となった。その後、10代直朗が若年寄となって城主格に昇格した。 14代直安は明治17年(1884年)7月、華族令により子爵となる。明治29年(1896年)1月には貴族院議員に選出され、大正9年(1920年)12月まで在任した。15代直方も貴族院議員を務める。17代井伊脩は大学で文学を専攻し作詞家・作曲家となり、作品集『鉛のドラマ–井伊脩歌集』などを出版している。 現当主(18代)井伊達夫(旧姓:中村)は、甲冑・刀剣史学研究家として知られる。平成19年(2007年)に17代脩と養子縁組して名跡を継ぎ、2018年現在、京都府京都市東山区花見小路にある京都井伊博物館の館長となっている。NHK大河ドラマ『おんな城主 直虎』の放送開始を受け、甲冑「紺糸威本小札胴丸」、脇差「直江志津兼友作の脇差」などを展示している。
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