幼少での即位、相次ぐ摂政の死と誘拐
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「ジェームズ1世 (イングランド王)」の記事における「幼少での即位、相次ぐ摂政の死と誘拐」の解説
1567年2月10日、ジェームズが1歳の誕生日を迎える以前に、父ダーンリー卿は不審な死を遂げ、母メアリーとは引き離された。母は父の殺害事件の首謀者と疑われた第4代ボスウェル伯ジェームズ・ヘップバーンと同年5月15日に再々婚したことでスコットランド貴族の怒りを買い、7月24日に母は廃位されボスウェル伯は亡命、ジェームズは5日後の7月29日に1歳1か月でスコットランド王位に就いた。メアリーは翌1568年に再起を図ったが失敗しイングランドへ亡命、以後1587年に処刑されるまでジェームズ6世と会うことはなかった。即位後、メアリー側の勢力とジェームズ6世を擁した勢力との間で、内戦が5年ほどの間続いた(メアリアン内戦(英語版))。この内戦は1573年にイングランドがスコットランドへ援軍を派遣して介入、メアリー派が籠城するエディンバラ城をジェームズ6世派が落とし残党を処刑することによって終息した。 ジェームズ6世の即位後しばらくの間は摂政が置かれ、17歳になるまで実質的な政務を執ることはなかった。最初の摂政はメアリーの庶出の兄で王の母方の伯父に当たる初代マリ伯爵ジェームズ・ステュアートであったが、1570年にメアリーの支持者によって暗殺された。次いで、ダーンリー卿の父で王の父方の祖父に当たるレノックス伯(英語版)マシュー・ステュアートが摂政となったが、この祖父も1571年に国内の紛争で殺害された。マリ伯の母方の伯父で3人目の摂政となったマー伯爵ジョン・アースキンも1572年に死去し、王の祖母マーガレット・ダグラスの従弟に当たるモートン伯爵ジェイムズ・ダグラスが最後に摂政となった。 1570年にマリ伯が暗殺された後頃から、ジェームズ6世の家庭教師としてジョージ・ブキャナン(英語版)とピーター・ヤング(英語版)がついている。政治に携わり、1578年頃までジェームズ6世のもとにいたと言われるブキャナンは、ヨーロッパで広まっていた王権神授説でなく、国王は人民から選ばれた存在とみなして、人民を王権の由来とする考えに基づく制限された世俗的王権論を教えようとしたとも言われている。ジェームズ6世はブキャナンから語学・天文学・数学・歴史・修辞学などを、ヤングからは歴史・神話・地理・医学などを教わり、ギリシャ・ローマの学問を重視した人文主義的教育を受けて、語学に堪能で博学を誇る君主へと成長した。ただしブキャナンに対する感情は複雑で、英才教育に感謝しながらも短気で教育は厳しい上、よく体罰を与えることもあり母を憎むあまり罪を吹き込むブキャナンを恐れていた(思想も世俗的王権論ではなく王権神授説を支持)。一方、自分に同情的で優しいヤングの方は気に入り、後に結婚のためデンマークに派遣する使者に選んでいる。 1579年、ジェームズ6世が成人の統治者となったことを祝う式典が行われた。この時以降、主な居所をそれまでのスターリング城からエディンバラ城に移すようになった。 同年、13歳のジェームズ6世はフランス帰りのオウビーニュイ卿エズメ・ステュアート(父方の従叔父に当たり、後にレノックス公爵に叙爵)に魅了され、彼を寵愛した(ジェームズ6世は男色家=ホモセクシュアルで知られている)。邪魔になったモートン伯は、レノックス公の謀略でダーンリー卿殺害に関与したとして1581年1月に処刑されたが、ジェームズ6世の寵臣政治はスコットランド貴族達の反発を招き、翌1582年8月に初代ガウリ伯ウィリアム・リヴァン(英語版)の計略によりジェームズ6世は誘拐、リヴァン城(英語版)に軟禁された(リヴァンの襲撃(英語版))。レノックス公も逮捕され12月にフランスへ逃亡した。ガウリ伯はプロテスタント貴族で、ジェームズ6世に対するフランスやカトリックの影響、母のイングランドからの帰還を妨げようとしたらしい。
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