幼少から市立船橋高校まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/28 04:21 UTC 版)
「渡辺康幸」の記事における「幼少から市立船橋高校まで」の解説
1973年、千葉県八千代市に生まれ、1980年、千葉市花見川区へ転居。渡辺の祖父(公務員)は元800m栃木県記録保持者で、父(銀行員)も短距離走の選手という家庭に育った。1986年、千葉市立畑小学校を卒業後は千葉市立花園中学校に進学。父の勧めにより陸上部に入部した。中学校の陸上部の練習は厳しくなかったが走ることに楽しさを見出し、3年時に千葉県大会800m3位となった。また駅伝では千葉市大会で区間賞を獲得して優勝し、千葉市選抜チームとして出場した千葉県中学校駅伝大会でも区間賞を獲得した。また幼少よりピアノも習い花園中学校の合唱祭ではピアノ伴奏も務めた(1996年アトランタオリンピックの日本選手団プロフィールより。趣味・特技:ピアノ)。 渡辺は県駅伝大会の結果により、箱根駅伝の強豪私立大学の附属校からのスカウトを受けて進学を考えていたが、その後市立船橋からの勧誘を受けた。監督の小出義雄が中学生の渡辺について「タイムは関係ないんですよ。大切なのはフォーム。康幸くんは大きな走りでねえ。こりゃあ絶対に伸びると思った」と高く評価しており、小出や渡辺敏彦が指導する陸上全国区の強豪校「市船」に憧れを抱いていた渡辺は、私立校への進学を勧める父親を説得し、市立船橋高校普通科の一般入試に合格して同校へ進学した。 市立船橋高校では渡辺敏彦監督指導の下、渡辺は陸上強豪校の厳しい練習を重ねた。朝練習からビルドアップ走と呼ばれる後半にかけて速度を上げるトレーニングの9km走が日課となった。放課の練習内容は曜日によって異なり、大きな高低差があるコースの20km走や、400m×20本のインターバル走、あるいはクロスカントリーコースを走る練習などを行なっていた。休養は日曜日のみであった。練習の成果はすぐに現れ、入学4ヵ月後の8月に初めての全国大会出場となる国民体育大会に出場し、少年男子B5000mで2位入賞の成績を残した。 渡辺は1989年の1年時から全国高等学校駅伝競走大会・都大路に3年連続出場した。1年時は準エース区間の3区8.1075kmを走った。この時のエース区間の1区では、後の早大・SB食品で同僚となる武井隆次(東京・國學院久我山3年)が区間賞の走りをした。2年時からは2年連続で各校のエースが集う花の1区・10.0kmを走った。NHKのテレビ中継でレースの解説を務めた宗茂が「彼は高校2年生にして、実業団2年目の選手に匹敵する走力の持ち主」と紹介するなど注目を集める中、堀尾典臣(鳥取・由良育英3年)や佐藤信之(愛知・中京3年)らを振り切り29分42秒で区間賞を獲得した。3年時は区間記録29分29秒の更新を狙って西京極競技場を先頭で飛び出し、前田了二(佐賀・白石3年)や磯松大輔(福岡・大牟田3年)ら2位以下に70m差をつけるなどハイペースで後続を振り落としつつ疾走した。7km過ぎで腹痛を起こし9kmからのラスト1kmは3分以上要したが、29分34秒を記録して区間賞を獲得し、チームも大牟田に次ぐ総合2位をマークした。1区の2年連続区間賞獲得は30年ぶり史上4人目となる快挙であった。また、都大路前の関東高校駅伝1区10kmでは高校生初の28分57秒を記録している。 2年時から高校長距離では無敵を誇り、1990・1991年の国民体育大会少年A10000mを連覇した。3年時には全国高等学校総合体育大会で1500m・5000mの2種目を制した。12月1日の中央大学記録会10000mにおいて28分35秒8を記録し、櫛部静二の従来記録を36秒更新する日本高校記録を樹立した。 さらに渡辺は1990年8月にプロヴディフで開催された世界ジュニア陸上競技選手権大会5000mに出場し、初めて日の丸のユニフォームを身にまとった。この時は緊張から来る腹痛により予選を途中棄権する結果に終わったが、世界の大舞台・世界の強さを自らの身で経験し、成長への大きなきっかけとした。1991年3月ボストンで開催された世界クロスカントリー選手権ジュニアでは優勝したイスマイル・キルイから31秒差、2位のハイレ・ゲブレセラシエから23秒差でゴールし、日本勢最高位の7位に入った。渡辺は10以上の大学・実業団からスカウトを受けたが、コーチを務める瀬古利彦の勧誘を受け、武井隆次・櫛部静二・花田勝彦ら強い選手と競争できる環境を求めて早稲田大学人間科学部に進学した。
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