ポンペイウスとの暗闘
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:59 UTC 版)
「マルクス・リキニウス・クラッスス」の記事における「ポンペイウスとの暗闘」の解説
紀元前70年、ポンペイウスがコンスルへ野心を露にしたのに対抗して、自らもコンスルへの立候補を表明。結果、ポンペイウスと共にクラッススはコンスルに選出された。クラッススはローマ市民1万人を食事に招待して、各家族に3ヵ月生活を持続できるくらいの食事を分配することによって、富を示した。クラッススは当時の政界で人並み以上の弁舌の才能を持ち、ポンペイウスが市民人気の高さから市民集会に勢力基盤を持つのに対して、クラッススは元老院で最も勢力を持った。 紀元前66年、当時アエディリス(按察官)であったガイウス・ユリウス・カエサルが首謀し、クラッススを独裁官とし、カエサル自身がマギステル・エクィトゥム(騎士長官)となり、反対派の元老院議員を殺害した上で国家を壟断しようとする計画が持ち上がったものの、未遂に終わったとされる。 紀元前65年に、クラッススはオプティマテスに属するクィントゥス・ルタティウス・カトゥルス(ドイツ語版)と共にケンソル(監察官)に選出された。クラッススはケンソル在任中にエジプトを私物化しようと策略したが、カトゥルスが抗議の意を以て辞任し、クラッススはケンソルの職共々野望も諦めざるを得なかった。 紀元前63年に発覚したルキウス・セルギウス・カティリナによる国家転覆の陰謀へクラッススが関わっているとマルクス・トゥッリウス・キケロが名指しで批判した。そのため、キケロを憎んだクラッススはキケロを抹殺しようと考えたが、息子のプブリウスが仲介に入り、キケロと一先ずは和解した。なお、ケンソル辞任後は軍事での指揮権(インペリウム)を得る目的もあって、「フラメン・ディアリス(英語版)」(ユーピテルを始めとした十分に獲得できる地位)への就任を断念し、一元老院議員としての地位に留まった。
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