ポンペイウス派との戦い
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 16:53 UTC 版)
「アウグストゥス」の記事における「ポンペイウス派との戦い」の解説
詳細は「ナウロクス沖の海戦」を参照 三頭政治が成立し、中央の元老院派が根絶やしになった後も、地方では元老院派が残っていた。その最たるものはグナエウス・ポンペイウス・マグヌスの次男セクストゥス・ポンペイウスで、カエサル派で統一された三頭とは本来敵対関係にあるはずだったが、当初オクタウィアヌスとアントニウスは競ってこのポンペイウスの次男と同盟を結ぼうとした。当初オクタウィアヌスはセクストゥクスと和議、サルディニア島、コルシカ、シキリア、ペロポンネソス半島の領有権を認め、さらに紀元前35年の執政官になることも確約していた。 しかし、セクストゥスがイタリア半島への小麦の運搬船を妨害し始め、イタリア半島の食糧供給が悪化する。自らを「ネプトゥヌスの子(Neptuni Fillius)」と呼び、地中海の制海権を脅かすセクストゥスをオクタウィアヌスは看過できず、両者の関係は悪化した。オクタウィアヌスはセクストゥスとの戦争をはじめるためにアントニウスへ援助を要請、アントニウスはこれを承諾した。 アントニウスが政敵であるオクタウィアヌスに力を貸したのは、自身の野心、すなわちカエサルが実現できずに終わったパルティア遠征を達成するために貸しを作りたかったからであった。カルラエの戦いでクラッススが破れ、屈辱的な敗北のままでいるローマにとって、パルティアへの勝利は市民や軍人の支持を得るには格好の事業であった。 そして紀元前37年、三頭が再び集まり、三頭政治の5年間延長を決定した。アントニウスはオクタウィアヌスに120隻の軍船を、オクタウィアヌスはアントニウスに2万の軍団兵を相互に提供することを約束した。アントニウスはオクタウィアヌスに約束した軍船を送った。しかしオクタウィアヌスは紀元前36年のパルティア戦争の際、姉のオクタウィアがアテネへ行くときに、約束の10分の1である2,000人を送っただけであった。 紀元前36年9月3日、ナウロクス沖の海戦でセクストゥス・ポンペイウスは、アグリッパ率いるオクタウィアヌス軍に敗北する。そしてオクタウィアヌスとレピドゥスはシチリア島に上陸した。セクストゥスは逃亡を図るが、紀元前35年にアントニウス派の手の者に捕まり処刑された。
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