ポンペイウス裁判
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 06:36 UTC 版)
「クィントゥス・ポンペイウス」の記事における「ポンペイウス裁判」の解説
元老院はポンペイウスとヌマンティアの双方の言い分を聞いた。ポンペイウスは依然としてセルティベリア人に譲歩をせず、保証も与えず、代わりに無条件降伏を受け入れたと主張していた。ヌマンティア側は合意について語った。歴史学者G. Simonは、ポンペイウスが無実であることを誰かに納得させることができた可能性は低かったと示唆している。不運なポンペイウスの多くの政敵が、彼の行動を激しい言葉で避難し、彼をヌマンティアに引き渡すべきと要求した。ポンペイウスは自分の政治生命だけでなく、生命そのものが危機にさらされていると認識し、自分を猛然と擁護した。ウァレリウス・マクシムスはポンペイウスの演説から引用していると思われるが、ポンペイウスは「前任者のメテッルス・マケドニクスは、ポンペイウスに軍を引き渡す前に、動員を解除し、食料の略奪を許し、矢や槍さえも壊した」と主張したとする。このようにして、ポンペイウスは前任者の悪意に責任を押し付けようとした。 元老院議員は戦争の継続を決定した。法を遵守していることを見せるために、彼らはポンペイウスを違法な条約を結んだ罪人としてヌマンティアに引き渡すことを提案した。この法案は民会にも提出されたが、この時点でも庶民の間ではポンペイウスの人気は高かった。ポンペイウスは、自分の話がより真実であると人々を納得させることができ。その結果、法案は却下された。 一応ヌマンティアの剣では有罪は免れたものの、ポンペイウスにとって話はそれだけでは終わらなかった。紀元前138年、ポンペイウスは、カエピオ兄弟とメテッルス兄弟から、恐喝事件の被告人として告訴された。起訴の正式な理由は不明である。キケロとヴァレリー・マキシムウァレリウス・マクシムスは、ポンペイウスの反対派の影響力が裁判官に期待された影響を与えなかったと報告しており、無罪判決が下された。 紀元前137年、ヒスパニア・キテリオルで執政官ガイウス・ホスティリウス・マンキヌスが、ヌマンティアとまたもや恥ずべき協定を結んだとの報告がローマに届き、元老院は再びポンペイウスのことを思い出した。マンキヌスは元老院に対して自分を正当化するために、ポンペイウスの行動のために自分の軍が機能せず、彼が被った敗北は旧条約違反の当然の結果であると主張した。元老院はマンキヌスをヌマンティアに引き渡すことを提案したが、これはポンペイウスが無罪となったことと矛盾する。このため、マンキヌスも無罪を勝ち取るか、あるいはポンペイウスが新たに有罪とされる可能性があった。しかしマンキヌスはこの状況を利用することができず、ヌマンティアに引き渡されることとなった(実際にはヌマンティアは受け取りを拒否した)。ポンペイウスはまたも処分を免れた。
※この「ポンペイウス裁判」の解説は、「クィントゥス・ポンペイウス」の解説の一部です。
「ポンペイウス裁判」を含む「クィントゥス・ポンペイウス」の記事については、「クィントゥス・ポンペイウス」の概要を参照ください。
- ポンペイウス裁判のページへのリンク