ポンペーとプロアゴン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/13 10:23 UTC 版)
「ディオニューシア祭」の記事における「ポンペーとプロアゴン」の解説
アルコンは選出されるとすぐ、祭の開催を支援する2人の補佐役(パレドロス)と 10人の世話役(エピメレタス)を選び、市のデュオニューシア祭に備えた。祭りの初日にポンペーが行なわれ、アテナイ市民、外国人居住者、アテナイのコロニーの代表者らの行列が祭りの主役であるディオニューソス・エレウテレスの木像を運びながらアクロポリスの南斜面にあるディオニューソス劇場へ向けて行進した。地方のディオニューシア祭と同様に彼らも木や青銅で出来たファルスを運んだ。また、より大きなファルスが台車に乗せられて引かれた。籠持ちや水運び、ワイン運びも行なわれた。 紀元前5世紀半ばデロス同盟が絶頂にあったときには、アテナイの権力を誇示する様々な寄贈品や武器も運ばれたが、その行列の中には劇場で犠牲に捧げられる雄牛もいた。行列の中で一番目立ったのはぜいたくで華美な服をまとったコレゴスだった。ポンペーの後、コレゴスは合唱隊を率いて熱狂的な賛歌の競演を行った。これはとても競争的なもので、最高の笛の名手が音楽を演奏し、シモーニデースやピンダロスのような詩人が作詞して提供した。競演の後、雄牛が犠牲に捧げられ、全てのアテナイ市民のために饗宴が開催された。これに続いてコーモス(英語版)という行列が行われたが、これはおそらく通りを練り歩くお祭り騒ぎだったのだろう。 翌日、プロアゴンで劇作家が演じられる劇のタイトルを発表し、審判がくじで選ばれた。プロアゴンが当初どこで行われたかは分かっていないが、紀元前5世紀中頃以降はアクロポリスにあるペリクレスのオデオン(英語版)で行われた。プロアゴンは年間を通じてアテナイになんらかの貢献をした著名な市民や外国人を表彰する場でもあった。またペロポネソス戦争中は戦争で孤児になった子供たちがオデオンに参列したが、それはおそらくは彼らの父に敬意を表すためと考えられる。 406年に劇作家エウリピデスの死が告知されたのがプロアゴンであったように、ここはその他の告知の場としても用いられたようである。
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