ポンペイウスとの対決とは? わかりやすく解説

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ポンペイウスとの対決

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 16:20 UTC 版)

ガイウス・ユリウス・カエサル」の記事における「ポンペイウスとの対決」の解説

紀元前53年パルティア遠征していた三頭政治一角であるクラッススの軍が壊滅カルラエの戦い)し、クラッスス戦死したことにより三頭政治崩壊したまた、紀元前54年ポンペイウス嫁いでいた娘ユリア死去したことも受けてポンペイウスカエサルと距離を置き、三頭にとって共通の政敵であったカトルキウス・ドミティウス・アヘノバルブスらに接近したため、両者の対立顕在化した。 紀元前49年カエサルガリア属州総督解任および本国召還命じる『セナトゥス・コンスルトゥム・ウルティムム元老院最終決議)』が発布された。カエサル自派護民官ローマ追われたことを名目に、軍を率いてルビコン川越えたことで、ポンペイウス及び元老院派との内戦突入した1月10日ルビコン川を渡る際、彼は「ここを渡れば人間世界破滅、渡らなければ私の破滅神々の待つところ、我々を侮辱した敵の待つところへ進もう賽は投げられた」と飛ばしたという。 ルビコン川越えたカエサルアドリア海沿いにイタリア半島制圧目指した。対すポンペイウスローマにいたため即時軍団編成行えず、イタリア半島から逃れ勢力地盤であったギリシア軍備整えることにした。多く元老院議員ポンペイウスに従ってギリシア向かった。こうして、カエサルイタリア半島実質的な支配権を手にした。 ローマ制圧後、マッシリア包囲戦イレルダの戦いヒスパニアマッシリア(現マルセイユ)などの元老院派平定して後方の安全を確保しカエサル独裁官として仕切った選挙紀元前48年執政官に選出された。独裁官10日余りで自ら辞任しローマ発って軍を率いてギリシア上陸した元老院派兵站基地包囲したデュッラキウムの戦い敗退喫したが、紀元前48年8月ファルサルスの戦い兵力劣りながらも優れた戦術によって勝利を収めたポンペイウスエジプト逃亡したが、9月29日アレクサンドリア上陸しようとした際、プトレマイオス13世側近計略によって迎えの船の上殺害された。後を追ってきたカエサルアレクサンドリア着いたのは、その数日後だった。

※この「ポンペイウスとの対決」の解説は、「ガイウス・ユリウス・カエサル」の解説の一部です。
「ポンペイウスとの対決」を含む「ガイウス・ユリウス・カエサル」の記事については、「ガイウス・ユリウス・カエサル」の概要を参照ください。

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