ルビコン川を渡る
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/22 13:41 UTC 版)
「ローマ内戦 (紀元前49年-紀元前45年)」の記事における「ルビコン川を渡る」の解説
紀元前49年1月10日、カエサルは子飼いの部隊である第10軍団と共に、ガリア・キサルピナとイタリア本土の境界であるルビコン川を渡るという決定的な一歩を踏み出した(イタリア本土(ルビコン以南、ブルンディシウム以北)へ軍隊を率いて侵入することは禁じられていたが、実際は過去にマリウスやスッラも攻め込んでいる)。なお、この際にカエサルはalea iacta est(賽は投げられた)と言ったとされる。 ローマへのカエサルの進撃に対して、無防備なローマにいることを嫌ったポンペイウスはローマから逃れた。ポンペイウスには影響下にある軍隊がいくつかあり、その中のドミティウス・アヘノバルブスに対してカエサルがローマに着く前に途中で追捕するよう指示を出したものの、カエサルはドミティウス軍をコルフィニウム(現:コルフィーニオ)で打ち破った。カエサルはローマへ向かわずにポンペイウスを追ってさらに南下。ポンペイウスは自身の地盤である東方属州へ向かうためにブルンディシウムを目指し、クィントゥス・カエキリウス・メテッルス・ピウス・スキピオ・ナシカやマルクス・ポルキウス・カトら元老院議員もポンペイウスに合流するため南へ逃れた。 カエサルはポンペイウスへ会談をするように申し出たが、ポンペイウスはこれを拒否。その後カエサルもブルンディシウムへ到着したものの、紀元前49年3月にポンペイウスは自軍の船隊と共にギリシアまで逃れていた。この時カエサルの金庫は空っぽになっていたので、彼は元老院派との戦いに備えてローマの国庫の金を軍資金に充てた。 ポンペイウスが軍を集めている間、カエサルはポンペイウスへの合力が予想される軍隊を排除すべく元老院派の牙城であったヒスパニアへ進軍。イレルダの戦いでルキウス・アフラニウスやマルクス・ペトレイウス、マルクス・テレンティウス・ウァロらが率いる元老院派軍を破り、元老院派に組して抗戦したマッシリア(現:マルセイユ)もデキムス・ユニウス・ブルトゥス・アルビヌスらが陥落させた(マッシリア包囲戦)。一方、同じ元老院派の勢力下にあった北アフリカへは、ガイウス・スクリボニウス・クリオが総指揮を執るカエサル軍がアフリカ属州の州都であるウティカへ侵攻したものの、元老院派はヌミディア王ユバ1世の加勢も受けてバグラダス川の戦い(現:メジェルダ川)でカエサル軍を壊滅させ、クリオを討ち取った。 カエサルはローマへ戻ると元老院によって紀元前48年のコンスルに選出され、ギリシアにポンペイウスを追討するためカエサルは海峡の向こう側のエピロスに約15,000人の軍隊を集結させた。
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