ルビコン川論争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/06 21:56 UTC 版)
その後の1000年余りの時間の中で河道の変化などが生じ、カエサルがルビコン川を渡った地点はどこか、あるいは「ルビコン川」そのものがこの地域のどの川にあたるのかはわからなくなった(イタリア語版ウィキペディアには独立項目 it:Localizzazione dell'antico Rubicone 「古代ルビコン川の位置」があり、河川争奪によるこの地域の河川流路の変遷が説明されている)。 17世紀頃から、“我が地元を流れる川こそが当時の「ルビコン川」である”との主張が各地で活発化した。「ルビコン川」の候補には、サビニャーノ・ディ・ロマーニャ(現在のサヴィニャーノ・スル・ルビコーネ)を流れるフィウミチーノ川のほか、チェゼーナを流れるピシャテッロ川や、現在のフォルリ=チェゼーナ県とリミニ県との県境付近を流れるウーゾ川などがある。このうちフィウミチーノ川が現在ルビコーネ川とされている川である。3世紀に作成され中世に模写されたポイティンガー図(タブラ・ペウティンゲリアナ)は、都市や街道の距離についての正確性の高い地図であるが、この地図においてサビニャーノの近くに「ルビコン川」が描かれていることが、フィウミチーノ川をルビコン川に比定する論拠の一つとされている。 1933年8月、「外国からの訪問客にルビコン川の位置を訊かれても答えられない」ことを憂慮したベニート・ムッソリーニは、政令によってフィウミチーノ川を「ルビコーネ川」と改称した。またサビニャーノ・ディ・ロマーニャの町名もサヴィニャーノ・スル・ルビコーネ(「ルビコン河畔のサヴィニャーノ」の意)に改称されている。しかしムッソリーニによる裁定には、従来からの論争に決着をつけるような新たな裏付けが示されたわけではなく、第二次世界大戦後に「本物のルビコン川」をめぐる論争がかえって紛糾する一因となっている。
※この「ルビコン川論争」の解説は、「ルビコン川」の解説の一部です。
「ルビコン川論争」を含む「ルビコン川」の記事については、「ルビコン川」の概要を参照ください。
- ルビコン川論争のページへのリンク