ポンペイの発掘とは? わかりやすく解説

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ポンペイの発掘

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 02:44 UTC 版)

ポンペイ」の記事における「ポンペイの発掘」の解説

ポンペイ (イタリアのコムーネ)」も参照 噴火によって壊滅した後は二度と集落作られることはなかったが、その後1000年以上「町」という地名呼ばれた他、散発的に古代の品が発見されたので、下に都市埋まっていることは知られていた。 1738年ヘルクラネウム現在のエルコラーノにあった)が、1748年ポンペイ再発見され、建造物の完全な形や当時壁画明らかにするために断続的に発掘が行われた。これはドメニコ・フォンターナという建築家サルノ川沿い掘っていた1599年遺跡を見つけてから150年経過していた。この時点までヘルクラネウムポンペイ完璧に消滅した考えられていた。いくつかの男女交わりを描く美術品フレスコ画)は、最初フォンターナによって発掘されたが、@media screen{.mw-parser-output .fix-domain{border-bottom:dashed 1px}}将来考古学者によって再発見されたほうが重要性がわかるであろうと判断したフォンターナ自身埋め戻しとされる[要出典]。ただしこれには明確な証拠はない。ポンペイその周辺別荘からは多数壁画発掘され古代ローマ絵画を知る上で重要な作品群となっている。ポンペイの壁画の様式には年代により変遷見られ主題静物風景風俗神話多岐にわたっている。男女交わり描いた絵も有名で、これらはフォルム市民広場)や浴場多くの家や別荘で、よい状態で保存され続けていた。1000平方メートル広さをもつホテルは、町のそばで見つかった。現在、このホテルは、「グランドホテル Murecine」と呼ばれるポンペイ壁画豊かな色彩を失わなかった秘密は、この街襲った悲劇にあった79年ある日、町の北西10kmにあるヴェスヴィオ火山噴火により押し寄せた火砕流有毒ガスが、ポンペイ人々の命を次々と奪っていった。一瞬にして5メートル深さに町全体飲み込んだ火砕流が、当時の人々の生活をそのままの状態で保存したポンペイ人々前にその姿を再び現し18世紀半ばから、発掘は今に至るまで続けられている。地中から次々と現れるローマ時代遺品美しさ世界驚愕したが、その美しさ秘密は実は火砕流堆積物にあった火山灰主体とする火砕流堆積物には乾燥剤として用いられるシリカゲル似た成分含まれ湿気吸収した。この火山灰が町全体隙間なく埋め尽くしたため、壁画美術品劣化最小限食い止められたのであった当時宗教儀式様子描いた壁画鮮烈な色合いは「ポンペイ・レッド」と呼ばれている。ポンペイ悲劇皮肉にも古代ローマ帝国栄華を今に伝えることになったポンペイ建造物街区古代ローマ当時のままの唯一の町として知られている。後の歴史家たちは、その歴史家の時代ローマ古代ローマそのまま伝えていると誤解していたが、ポンペイこそが最も純粋に古代ローマ伝統守り、ほぼ直角に交差する直線大通りによって規則的に区切られ計画的に設計された町であった通り両側には家と店がある。建造物は石でできていた。居酒屋メニュー残っていて、こう記されている。「お客様へ、私ども台所鶏肉、豚、孔雀くじゃく)などを用意してあります。」 件の噴火時に発生した火砕流速度時速 100km以上で市民は到底逃げることはできず、一瞬のうちに全員生き埋めになった。後に発掘された際には遺体部分だけが腐敗消失し火山灰中に空洞ができていた。考古学者たちはここに石膏流し込み逃げまどう市民最期の瞬間再現した。顔までは再現できなかったが、母親子供覆い隠し襲い来る火砕流から子供だけでも守ろうとした様子飼われていたがもだえ苦し様子生々しく再現された。この様子は火砕流一瞬にしてポンペイ市を埋め尽くしたことを示している。この石膏像制作によって遺骨損傷したため、ポンペイ市民法医学的調査長らく滞っていたが、オプロンティス荘(英語版近く商館思われる建物地下室から老若男女身分バラバラ居場所身分別にある程度グループ作って固まっていた)な54体の遺骨発見された。彼らは火砕流からは難を逃れたが、火山性ガスによる窒息死亡して火山灰埋もれていた。町は、1世紀古代ローマ人たちの生きた生活の様子そのまま伝える。焼いたままのパンや、テーブル並べられたままの当時食事食器コインクリーニング屋のような職業貿易会社存在、壁の落書き当時ラテン語そのまま伝えている。保存状態のよいフレスコ画は、当時文化そのまま伝える。当時ポンペイはとても活気のある都市だった。整備され上下水道水道の弁は、水の量を調節する仕組みが現在とほとんど変わらずきれいな水町中送っていた。トイレ社交の場となっていたらしく二人掛けトイレ存在しトイレ奴隷とその主が共同使用しており、トイレの壁に「見事だ」と奴隷による落書き残され遺構がある。発掘され排泄物や骨の調査から、身分によって食事内容違いはなく、皆健康的な食生活送ってたらしい爆発時の町の人口は1万人弱で、ローマ人ローマ市住民)の別荘多くあり、また彼ら向けのサービス多くあった。Macellum(大きな食物市場)、Pistrinum(製粉所)、Thermopolia(冷たいものや熱いものなどさまざまな飲料提供したバー)、cauporioe(小さなレストラン)、円形劇場などがあり、噴火直前までこれらが営業していた痕跡がある。2002年にはサルノ河口ボート浮かべヴェネツィアのような船上生活をしていた人がいたことが判明するなど現在も新事実続々報告されている。 「市民全員噴火死亡し唯一の生き残り死刑囚ポンペイの町のことを語ったが、誰も信用しなかった。しかしそれは伝説として残り発掘されることになった」という逸話が伝わるが事実ではないと思われるとりわけ死刑囚に関する事項)。火砕流歴史的にはまれな現象であり、目撃者は殆ど全員死亡するので伝説としても残りにくく、一般人理解されることは困難である[独自研究?]。この逸話1902年に、西インド諸島フランス領マルティニーク島にあるプレー火山起きた同様の火砕流噴火下敷きにしていると思われる。この噴火では火砕流以外に麓のサンピエール市で泥流発生し警察留置場拘留されていた囚人含めた3名のみを残して住民2万8千人一瞬にしてほぼ全滅したポンペイ建築物発掘により白日の下にさらされたことにより、止まった時計が再び動き出すかのごとく、雨風による腐朽進行するようになった2010年11月8日には「剣闘士の家」と呼ばれた建物倒壊、翌2011年10月21日には「ポルタノラの壁」倒壊している。

※この「ポンペイの発掘」の解説は、「ポンペイ」の解説の一部です。
「ポンペイの発掘」を含む「ポンペイ」の記事については、「ポンペイ」の概要を参照ください。

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