説話の政治性と太子信仰の形成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 03:04 UTC 版)
「片岡山伝説」の記事における「説話の政治性と太子信仰の形成」の解説
聖徳太子の活躍は、古代日本が律令国家として発展していく第一歩を踏み出した時期であり、推古天皇の摂政兼皇太子として朝廷権力の中枢にあって諸改革を進めた時期に相当している。しかし、『日本書紀』の記述では、太子の政治活動は推古朝の前半期に偏っており、必ずしも後半期には充分に及んでいない。これについて、米田雄介は、聖徳太子の後半期の政治的社会的地位が前半期に比較して相対的に低下しているのではなく、太子は蘇我氏に擁されながらも、一方では蘇我氏に屈服していないという立場と目され、反蘇我氏の諸勢力のなかからも蘇我氏を統制しうる象徴的な存在としておおいに期待され、それゆえに脱世俗的な存在として聖化されたものであろうと推定している。 聖徳太子伝説の形成により、太子に対する崇拝・信仰は時代が下るとともにさかんになっていった。摂津国の四天王寺や河内国磯長(大阪府南河内郡太子町)の「太子廟」などは古くより数多の参詣者を集める一種の聖地である。太子信仰の実例については枚挙にいとまがないが、鎌倉時代、浄土真宗の開祖とされる親鸞が仏教者として初めて公然と妻帯することを決意したのも聖徳太子からの夢告によるものと信じられている。
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