説話の付加
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 03:04 UTC 版)
この説話に対して後世、実は、この飢人こそ、禅宗の始祖として知られる達磨その人であったという話が付加される。これは一見、はるか後の禅宗の徒による牽強付会のようにもみえるが、実は奈良時代末に敬明によって編まれた『上宮太子伝』に注記として記されたものであり、同時にこれは、太子が隋の南嶽慧思の生まれ変わりであるという説と密接にからんでいる。南嶽慧思は天台宗を開いた天台智顗の師であり、天台宗では第二祖とされる高僧で、特異の禅定と法華信仰をもって知られるが、その慧思が日本の王家に生まれ変わって太子となったという説が奈良時代末期の文献にみられる。そして慧思に日本への生まれ変わりを勧めたのが当時インドより中国にやって来た達磨であるとされる。とするならば、片岡山での邂逅はこの2人の再会であったという意味が付託される。 太子が用明天皇の皇子として飛鳥の地に誕生した時点においては慧思はまだ中国に生存していたのであるから、「生まれ変わり」はありえないわけではあるが、この説をさかんに普及させたのは唐からの渡来僧として著名な鑑真の弟子たち、すなわち唐より鑑真に同行した思託らをはじめとする律宗教団の人びとであったと考えられる。そして、最澄以降、天台宗が日本に定着していく過程で、この説は大きな役割を果たしたと考えられる。また、小野妹子が太子の命により遣隋使として煬帝のもとに派遣されたとき、太子の命で太子が未だ慧思であった際に用いた『法華経』を受け取りに出かけたという説もこれに加わる。 方岡山飢人説話は、9世紀初頭に薬師寺の僧景戒によって編纂された仏教説話集『日本霊異記』上巻でも確認されており、当時から広く知られた説話であったことがうかがわれる。同書の説話の末尾には「誠に知る聖人は聖を知り、凡夫は知らず、凡夫の肉眼には賤しき人と見え、聖人の通眼には隠身と見ゆ」と付言され、『日本書紀』記述の説話以上に仏教色の強い内容となっている。 ところで『日本書紀』においては、太子の仏教上の師である高句麗僧の慧慈が、太子の死をしきりに悼み、また「聖なる人」「大聖」と述べているが、さらに「三宝を恭み敬いて、黎元の厄を救う、是実の大聖なり」と述べたことを記している。ここにおける「聖」とは、上述のとおり解脱して悟りを得た者(仏)を意味しており、単に能力・識見にすぐれた人物というだけでなしに、平安時代には救世観音の化身であるという説も生じるなど、常人を越えた異能の人として崇敬されている。こうした諸説が成立する背景としては、太子が日本仏教の興隆に深くかかわったという歴史的事実を踏まえていることは言うまでもないが、一方ではすでに『日本書紀』の段階で異能の人として書き記されていることと無縁ではないと考慮される。 なお、聖徳太子伝説は以上のようなかたちで膨らんでゆくが、太子の伝説的な伝記は延喜17年(917年)成立といわれる『聖徳太子伝暦』に集大成されている。
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