日像とは? わかりやすく解説

にちぞう〔ニチザウ〕【日像】

読み方:にちぞう

[1269〜1342]鎌倉後期日蓮宗の僧。下総(しもうさ)の人。通称肥後阿闍梨(あじゃり)。日蓮日朗(にちろう)に師事京都入り三度追放されたが、妙顕寺創建し京都布教基盤つくった。著「秘蔵集」など。


日像

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/02 01:26 UTC 版)

日像
文永6年8月10日 - 康永元年/興国3年11月13日
1269年9月7日 - 1342年12月11日
肥後房
諡号 日像菩薩(後光厳天皇より)
生地 下総国
没地 山城国
宗派 日蓮宗
寺院 妙顕寺
日蓮日朗
弟子 満蔵(日乗)、大覚
宝塔寺
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日像(にちぞう)は、鎌倉時代日蓮宗。俗姓は平賀氏。幼名は経一丸。下総国の出身。房号は肥後房。肥後阿闍梨と称される。四条門流の祖。

略歴

建治元年(1275年)、日蓮の弟子で兄の日朗に師事した後、日蓮の直弟子となり経一丸の名を与えられ、玄旨伝法本尊]と呼ばれる曼荼羅本尊を授けられた。

永仁元年(1293年)、日蓮の遺命を果たすべく、京都での布教を決意する。まず日蓮の足跡を辿って佐渡にて法華経を布教した後、北陸七尾に向かう。その船中での法論の結果、石動山の僧・満蔵(日乗)を弟子とした。満蔵により石動山に招かれ法華経を説くも、山上の大衆により満蔵共々追われ、それが羽咋妙成寺の創建に繋がることとなった。

永仁2年(1294年)、上洛して間もなく、禁裏に向かい上奏する。その後、辻説法を行い柳屋仲興大覚寺の僧大覚らから帰依を受ける。

徳治2年(1307年)、延暦寺東寺仁和寺南禅寺知恩寺などの諸大寺から迫害を受け、朝廷に合訴され、京都から追放する院宣を受けた。追放中、洛西・真言寺の住持・実賢、深草・極楽寺の住持・良桂、松ヶ崎・歓喜寺の住持・実眼らと法論を行い折伏した。延慶2年(1309年)、赦免され、京都へ戻る。

延慶3年(1310年)、諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を受けた。延慶4年(1311年)、赦免され、京都へ戻る。1321年(元亨元年)諸大寺から合訴され、京都から追放する院宣を受けたが、直ぐに許された。その後、後醍醐天皇より寺領を賜り、妙顕寺を建立した。建武元年(1334年)、後醍醐天皇より綸旨を賜り、法華宗号を許され、勅願寺となる。

妙顕寺は勅願寺たり、殊に一乗円頓の宗旨を弘め、宜しく四海泰平の精祈を凝すべし

以後、南朝後醍醐天皇の京都還幸の祈願する一方、北朝光厳上皇祈祷も行い、公武の信仰を集めた。

番神

日蓮宗系の法華経三十番神が守護するという信仰形態(法華神道)があるが、日像が日蓮宗に採り入れたとされる[1]

脚注

  1. ^ 宮川了篤「平成二十二年一月二十七日 最終講義 日蓮宗修法史概説 (宮川了篤先生退職記念号)」『身延論叢』第16号、身延山大学仏教学会、2011年、15-16頁、doi:10.15054/00000290ISSN 1342-2715 

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寺院

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