伽藍・境内
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本堂 - 慶長13年(1608年)建立。入母屋造、本瓦葺き。桁行七間、梁間五間。釈迦如来像、十界曼荼羅のほか、日蓮と日像の像を安置する。 多宝塔 - 室町時代建立 総門 - 室町時代建立。四脚門。 仁王門 - 1711年(宝永8年)再建 昭宣堂 - 昭和16年(1941年)建立。前身寺院極楽寺の開祖藤原基経(昭宣公)の宝篋印塔を安置する。 七面堂 - 寛文6年(1666年)に勧請された七面天女を祀る。 日像廟 - 日像は興国3年/康永元年(1342年)日像は妙顕寺で入寂し、当寺に葬られた。題目笠塔婆を安置する。 三十番神堂 千仏堂
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伽藍・境内
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「真宗大谷派名古屋別院」の記事における「伽藍・境内」の解説
山門 当初の山門は宝暦7年(1757年)建立。現在の山門は、昭和20年(1945年)の空襲による焼失後、昭和43年(1968年)に再建された。釈迦如来像(中央)、弥勒菩薩像(向かって右)、阿難尊者像(向かって左)を安置。 本堂 当初の本堂は元禄15年(1702年)建立。2度の再建後、昭和20年(1945年)の空襲で焼失。現在の本堂は、昭和41年(1966年)の再建。 対面所 毎月5日(1月のみ10日)〜28日まで、名古屋教区内外の布教使による法話が行われる。1階に名古屋別院総務部・財務部を置く。 名古屋教務所 教区会、門徒会、院議会などを開催する。各種講座の会場としても用いる。 教化センター 仏教図書館。真宗・仏教関連書籍や視聴覚教材の閲覧、貸し出しを行う。 納骨堂 信徒の遺骨を納める。毎年7月15日、納骨法要が行われる。 鐘楼 名古屋市の指定文化財。元禄5年(1692年)鋳造。総高177.5cm、口径108cm。 豊本説教場跡 現在の名古屋市中区栄に設置されていた別院の説教場の碑。名古屋高速道路建設工事の際に出土し、境内に移設。明治26年(1893年)建立。 明治天皇行在所旧址碑 明治天皇が行幸した際に、別院が行在所として使用されたことを記念して建立。 明治天皇名古屋大本営碑 昭和9年(1934年)6月1日建立。 明治23年(1890年)に陸軍・海軍合同の軍事演習を名古屋で行った際、この地に大本営を設置したことを記念。 昭和8年(1933年)11月2日に、史蹟名勝天然紀念物保存法に基づき、史蹟として文部大臣の指定を受けた(全国の他の「明治天皇旧跡」とともに昭和23年6月29日に史跡指定解除)。 住田智見講師句碑 昭和42年(1967年)、住田智見の生誕100年を記念して建立。 伊豆山権現参拝の折に詠んだ句「白毫の 光尊し 夜半・秋」を刻む。 住田智見は、明治元年(1868年)に祐誓寺(名古屋市熱田区)で生誕。大谷大学を卒業後、真宗大学教授、大谷大学学長を歴任した。また、真宗専門学校(現同朋大学)を創設した。昭和13年(1938年)死去。 古渡城址碑 前述の通り、境内地は古渡城の跡地と伝えられる。織田信秀は那古野城を息子信長に譲り、自らは古渡城を居城とした。天文15年(1546年)、信長はこの城で元服したといわれる。天文17年(1548年)に廃城。
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伽藍・境内
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本堂 天保3年(1830年)に29世・玄収院日明によって建立されたもので十間四面。堂内には伊豆市指定有形文化財に登録されている「日蓮聖人一代記額絵」が掲げられている。 七面堂 本堂向かって右手奥の石段上にあり七面大明神が勧請されている。 位牌堂 本堂向かって左手奥にあり、開基檀越・富永家歴代の他、歴代住職や檀信徒の位牌が安置されている。 客殿 本堂向かって左手にある。総木造で広い土間を有しているのが特徴。 赤門 朱塗りの山門。寄棟・茅葺き・三間三戸の八脚楼門で、上層部には高欄と花頭窓が付されている。 黒門 黒塗りの総門。桟瓦葺きで一間一戸の高麗門である。
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伽藍・境内
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「興禅寺 (長野県木曽町)」の記事における「伽藍・境内」の解説
本堂 観音堂 庫裏 万松庭 看雲庭 2019年(平成31年)国の登録記念物に指定された。作庭家重森三玲氏により1963年に造られた枯山水庭園。
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伽藍・境内
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総門 元禄年間(17世紀末〜18世紀初め)の建立と伝える。「本門寺」と刻された扁額は本阿弥光悦の筆によるもので、現在掲げられている額は複製。オリジナルは霊宝殿に収蔵され常設展示されている。 此経難持坂 池上本門寺の表参道96段の石段坂。石段は、慶長年間に加藤清正が寄進したものと伝えられている。妙法蓮華経(法華経)宝塔品の偈文の96文字にちなんで石段を96段とし、偈文の文頭の文字をとって坂名としている。 仁王門 大堂正面に建つ二重門。旧国宝の山門は、1945年(昭和20年)空襲で焼失。仁王門として1977年(昭和52年)に再建された。門内には彫刻家圓鍔勝三が、アントニオ猪木をモデルに制作した仁王像が安置されたが、近年修理を機に本殿内に移設。新たに仏師原田佳美作の仁王像が2001年(平成13年)10月に開眼供養が行われ奉られている。 日蓮像 仁王門手前の石段の脇に立つ。1983年(昭和58年)日蓮の700回忌に建立されたアルミニウム製の像である。彫刻家の北村西望の作。ここにはもと、明治時代の政治家の星亨の銅像があったが、戦時中の金属供出により撤去された。戦後になり星の遺族らが台座を寄付して日蓮像が建立された。 日朝堂 ここに祀られる日朝は身延山11世で、61歳の時に失明したが後に視力を回復したことから、眼病平癒、学業成就の利益があるとされている。以前はここで境内に居る鳩の餌を販売していたが、現在は東京都の指導により販売中止している。 鐘楼 現在の鐘楼は、1958年(昭和33年)の再建。旧梵鐘は、1647年(正保4年)加藤清正の娘で、徳川頼宣の室となった瑤林院が寄進したもので、旧鐘楼が空襲で焼失した際破損したため、現在は再建された鐘楼の脇に保存されている。 大堂 「祖師」すなわち日蓮を祀ることから「祖師堂」ともいう。旧大堂は、本門寺14世日詔の時代の1606年(慶長11年)加藤清正が母の七回忌追善供養のため建立したが、1619年(元和5年)に焼失。1628年(寛永6年)本門寺復歴16世日樹の代に金1万両を用いてほぼ旧規模に再建された。1710年(宝永7年)再び焼失。本門寺24世日等時代の1723年(享保8年)8代将軍徳川吉宗の用材寄進により、規模を縮小の上再建された。この3代目の大堂は、1945年(昭和20年)4月の空襲により焼失。1948年(昭和23年)仮祖師堂と宗祖奉安塔を建設。その後、本門寺79世伊藤日定が中心となり全国檀信徒の寄進を受け、1964年(昭和39年)現在の大堂を再建した。この際仮祖師堂は取り壊され、宗祖奉安塔は経蔵を北側へ移動させた上でその南側隣に移築された(現在の霊宝殿の位置)。現在の大堂は、根崎建築設計事務所の設計による鉄筋コンクリート造で屋根は入母屋造。高さ27メートルの大建築である。第二次大戦の空襲で焼失した旧堂には本阿弥光悦の筆になる「祖師堂」の扁額が掲げられていた(戦災で焼失)。再建後は本門寺80世金子日威が揮毫した「大堂」の扁額がかかる。堂内中央の厨子には、日蓮聖人坐像、右には日輪聖人坐像、左には日朗聖人坐像を安置する。1966年(昭和41年)川端龍子による天井画「未完の龍」が描かれている。2005年(平成17年)4月から屋根瓦修復及び雨水漏水対策、耐震補強・火事対策等の工事が行なわれ、建物全体が足場で覆われていたが2006年(平成18年)4月に工事が完了した。 経蔵 空襲による焼失をまぬがれた建物の1つ。輪蔵形式の内部には回転する八角形の書架があり、天海版一切経が収められていた。現在は別途保管。1784年(天明4年)に建立。第二次大戦後、大堂再建に伴う旧宗祖奉安殿移設により、元の場所よりやや北側の現在地に移された。 五重塔 高さ31.8メートル。空襲による焼失をまぬがれた貴重な古建築の1つで、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の乳母である岡部局(大姥局)(正心院日幸尼)の発願により、1608年(慶長13年)に建立され、後に現在の位置へ移築された。全面ベンガラ(赤色塗料)塗り、屋根は初層と二重は本瓦葺き、三重以上は銅板葺きとする(当初はすべて本瓦葺き)。建築様式は初層は和様、二重から上は禅宗様になる。初層の各面は中央を桟唐戸、両脇間には格狭間(ごうざま)形の装飾を入れ、蟇股(かえるまた)には十二支の彫刻を入れる。1997年(平成9年)10月から2002年(平成14年)3月にかけて国庫補助事業として解体修理が行われた。基礎部分の石段からはホンモンジゴケというコケの一種が見つかっている。五重塔下付近、東京国立博物館蔵・池上本門寺経筒(藤原守道作)が出土している。 宝塔 境内西方、日蓮の荼毘所と伝えられる場所に建つ。新編武蔵風土記によると、この地にはかつては2間に3間の灰堂があり、当初、本門寺の開基檀越である池上宗仲が宝塔を作って、日蓮の遺灰を中に盛って奉安したと伝えられている。現存の宝塔は棟札(所在不明)抄により、1828年(文政11年)日蓮の550遠忌を記念し、犬山城主・成瀬氏らを本願主として再建された。作者は、小木新七その他。その後、1851年(嘉永4年)に修理されている。円筒形の塔身に宝形屋根を載せた宝塔形式の塔である。富山本法寺蔵・重要文化財の絹本着色法華曼荼羅図に見える多宝仏塔に類似しており、建立時代は新しいが、宝塔形式の木造塔で内部空間を有するものは他にほとんど類例がない。石造方形基壇および石造蓮台形台座の上に木造塔身が建つ。木造塔身の軸部は平面円形でやや伏鉢状をなし、側柱8本を円形に配し、内部には四天柱を立てている。伏鉢部の上に12本の側柱および四天柱を配して上層をなしている。塔身は赤漆塗りとし、宝形屋根は瓦棒銅板葺きとする。附(つけたり)指定の宝塔は初層四天柱の内に安置され、意匠は本塔に類似している。 本殿 本殿とは、本師(釈尊)のおわします殿堂との意味。1969年(昭和44年)に、戦災で焼失した釈迦堂を再建したもの。戦後に建てられた近代仏堂建築として評価が高い。旧釈迦堂は旧大堂(祖師堂)に隣接して建っていたが、再建にあたっては公道を隔てた大堂後方の北側へ移された。本尊の釈迦如来像の胎内には、インドのネルー首相が寄贈した釈迦の舎利骨が納められている。他に、四菩薩立像(上行菩薩・無辺行菩薩・浄行菩薩・安立行菩薩)を安置する。 仁王像 本殿正面を入ると左右に祀られている。彫刻家の圓鍔勝三の作になる。モデルはアントニオ猪木(当時20歳代)とのこと。元は仁王門に祀られていたが、近年修理のため撤去され、修理後は本殿に場所を移した。 松涛園 本殿裏、朗峰会館北側に位置する。小堀遠州の作庭。1868年(慶応4年)4月、西郷隆盛と勝海舟が江戸城明け渡しの会見をした場所。隆盛の弟西郷従道が揮毫した西郷・勝両雄会見碑が園内に残る。1991年(平成3年)に園内の改修が行われた。園内には「根庵」「鈍庵」「松月亭」「浄庵」の茶室がある。「根庵」は三井の祖、益田鈍翁(考)庇護厚かった陶芸家大野鈍阿の住まいであった。この建物と「鈍庵」の二棟を裏千家より寄贈され移築したものである。「鈍庵」に対して根庵と名付けられ、八畳間の茶室二間、一回の最大収容人数は五十名である。「鈍庵」は四畳中板の茶室で栗材を使った建物である。「鈍庵」の名は、大野鈍阿が自らの名にちなんで付けたものである。「松月亭」は庭の西の小高い見晴らしの良い場所に建てられた四阿で、茶会では立礼席として使用され、床机等を配し六十名の席を作ることができる。「浄庵」は平成四年に完成した茶室で庭園の一番高いところにあり、国賓などを接遇できる茶室は、法華思想である「水」にちなみ「浄庵」と命名されている。 清正公堂 1824年(文政4年)建立の空襲で焼失した清正公堂は、加藤清正生誕460年を記念し三重塔形式で再建中。
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伽藍・境内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 14:13 UTC 版)
本堂 釈迦堂を伽藍に改めてから6年後の天正12年(1584年)に一度修繕される。現在の本堂は安永7年(1778年)に再建された当時のもので、間口七間・奥行六間である。 その後、昭和29年(1954年)10月に茅から瓦に葺き替えられ、同50年(1975年)8月には格天井の修理が施される。本尊は立体の十界曼荼羅で、その他には准西国稲毛三十三所観音の一である正観世音菩薩が安置されている。この正観世音菩薩は秘仏で12年に一度午年に開帳される。なお『新編武蔵風土記稿』に拠れば、当時本堂の他に二間四面の七面堂と番神堂があったとされているが、現在両堂は無く尊像は庚申堂にて安置されている。 庚申堂 主尊は帝釈天(尊像は庚申信仰の本尊である青面金剛明王像)。寺伝に拠れば、建久年間(1190~1199年)に佐伯民部吉春が稲毛重成より授かり釈迦堂に安置したものとされている。江戸時代から“登戸の帝釈天”として親しまれ、堂宇横には吉原の幇間と推察される桜川ぼたんが明治33年(1900年)に奉納した手水盤がある。その他、七面大明神・三十番神・鬼子母神・大黒天・毘沙門天・金色大天女等が安置されている。 長森稲荷社 開基檀越・佐伯家の敷地内に勧請されている。元文5年(1740年)11月、長森稲荷大明神の神体が安立寺の僧・日現によって麻布日ヶ窪(現在の六本木ヒルズ辺り)から遷座されて以来、安立寺が長森稲荷社の別當寺となり歴代住持が別當職を兼務し今日に至っている。なお、中原与兵衛刻と伝えられる神体は安立寺庚申堂の三十番神の一として納められており、社殿には佐伯助五郎重真(遷座当時の佐伯家当主)が奉納した巻物図像形式の神体を祀っている。
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伽藍・境内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/15 19:38 UTC 版)
「妙泉寺 (いすみ市)」の記事における「伽藍・境内」の解説
42世・報寿院日藻が記した『興栄記』によれば、最盛期の妙泉寺には「祖師堂・客殿(=本堂)・食堂・鐘楼・仁王門・鬼子母神堂・番神堂」の七堂伽藍が整えられていたという。また明治29年(1896年)に編纂された『日本博覧図』所収「興榮山妙泉寺境内全圖」によれば、「祖師堂・客殿(=本堂)・妙見堂・庫裡・鐘楼・中門・長屋門・仁王門」が存在し、祖師堂・客殿・庫裡は長回廊で繋がっていた。現在の諸堂は以下の通りである。 本堂 客殿 庫裡 鐘楼 中門 長屋門 仁王門
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伽藍・境内
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 22:25 UTC 版)
本堂には本尊の十一面観世音菩薩の他、柳谷観世音立像、地蔵菩薩座像等が安置されており、境内には、歓喜天を祀る聖天堂、本堂の前には享保4年(1719年)建立の宝篋印塔、大正11年(1922年)建立の石造十三重塔の他、白龍王神、八大龍神と刻まれた石造の碑がある。 当山は、寺町と新町の中間にあり、境内の通路を通って両町への行き来が出来ることから、「ゆきぬけ寺」として、近隣の人々から親しまれている。
※この「伽藍・境内」の解説は、「善福院 (伊賀市)」の解説の一部です。
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