天皇親政運動の展開
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明治10年8月に設置された侍補グループは新たに佐々木を加え、政府首班の内務卿大久保利通と天皇輔導を話し合い、大久保を宮内卿とする構想実現に近づけたが、明治11年(1878年)5月14日に大久保が暗殺されたことで挫折した。政治危機を感じた佐々木は元田や吉井友実・土方久元・米田虎雄ら他の侍補と共に2日後の5月16日に天皇に親政実行を直訴、天皇も賛成したことを受け、18日に大久保の後を継いで内務卿となった伊藤博文・岩倉具視ら政府に対して、天皇の閣僚会議参加と侍補の傍聴・臨席を迫った。 だが、政府は前者を認めたが、後者は宮中・府中が混同され分離の原則を乱す元になるとして拒否した。佐々木は政府に抗議したが聞き入れられず、天皇の政治関与も抑えられ、天皇が希望した佐々木の工部卿就任はならず、29日に侍補達が反対していた井上馨が伊藤の後釜で工部卿になったこと、侍補の一員で宮内卿を兼任していた徳大寺実則が政府に侍補を解任されたことなどで侍補の運動は抑えられていった。一方、12月24日に佐々木が海軍省御用掛に任命され、同じ侍補の山口正定も海軍中佐にされたことは、参謀本部を創設して天皇との直結を図った陸軍に反発した海軍が、天皇の信頼が厚い両者を通して天皇との直結を提案(海軍卿川村純義の主張とされる)、侍補を政治関与させて侍補との妥協を図った政府の意志であった。御用掛を兼任した佐々木は様々な人材を登用、山本権兵衛のドイツ留学と伊地知正治・副島種臣の宮内省引き入れを仲介している。 しかし侍補達は運動を諦めず、翌明治12年(1879年)3月に政府に建議書を提出、前年8月から11月に北陸・東海地方を巡幸して積極的に地方の民情に接した天皇が「勤倹」と称する表層的な開化主義の否定と財政緊縮を岩倉らに表明したことを受け、天皇の意見を元に建議書を作成し政府に提出した。内容は親政と勤倹実現、政府の元老院干渉排除を盛り込んでいたが、この意見も政策に反映されず、政府から侍補の分断を目論んだ人事異動が発令、吉井が工部少輔として工部省へ転出された。この異動は単なる分断ではなく、勤倹を重視する侍補を現場へ送り込み、実際に主張をどう活かすか実地教育と考えの補正を兼ねた政府側の目論見があり、工部卿の井上と海軍卿の川村がその監督を引き受けたとする。やがて吉井は多忙から侍補の役割を果たせなくなり、勤倹の理念を抑え政府へ籠絡されていった。 そうこうする内に元田が「侍補を辞めて、代わりに参議が責任を果たす」と軽率な発言をしたことを受け、10月13日に侍補は廃止された。元田は宮中に留まったが、佐々木は明治13年(1880年)初頭に政府から北日本出張を命じられ、同年3月に東京へ戻り元老院副議長に就任、宮中から遠ざけられた。廃止と引き換えに政府は天皇輔導を約束したが、明治12年9月に井上が参議に加わり、明治13年2月に田中不二麿が司法卿に就任したことは天皇が政府に押し切られた結果であり、輔導の約束は守られず天皇の政治関与抑制も続けられ、親政運動は侍補廃止により挫折した。 しかし、明治13年5月に大蔵卿大隈重信主導の大隈財政を巡る紛糾で佐々木らは再び政争に加わった。大隈は外債募集で財政補填を図ったが政府が賛成・反対に分裂、佐々木は元田・土方ら元侍補と組んで反対陣営に与し天皇に奏上、政府の反対意見も集積した上で天皇は外債を中止した。この問題を契機として元侍補を再結集し政府の人事と財政に口を挟むようになり、提言は実現はしなかったが、天皇の信任でしばしば諮問に応じている(谷干城と内海忠勝の出処進退、西園寺公望の拝謁問題の相談)。 翌明治14年(1881年)、大隈が提出した急進的な憲法制定・国会開設論が伊藤らの反発を買い、7月に開拓使官有物払下げ事件が起こり世論の激化で政府が動揺すると好機と考え、宮中や元老院を舞台に谷・元田らと共に天皇親政運動を主導して、払下げ反対と大隈の追放および元老院の権限強化と参議廃止を訴え、天皇を擁して再度親政を掲げ伊藤ら政府要人の排除に動いたために「中正党」と称された。9月に結成された中正党の顔触れは元侍補達と谷や鳥尾小弥太・三浦梧楼・曾我祐準ら非主流派の軍人、河田景与・中村弘毅ら元老院議官、三好退蔵・金子堅太郎ら少壮官僚で構成されていた。 だが、10月に政府主導の明治十四年の政変で大隈が追放、払下げ中止や政府が打ち出した国会開設の詔への対応を巡り中正党は分裂、政府の方針は参議の継続と各省卿の兼任となり、10月21日に政変による人事異動で佐々木は参議・工部卿に就任した。参議廃止を始めとした政治改革は取り上げられず天皇親政運動も消滅、佐々木は工部省で新たな政策に取り組まなければならなくなる。
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