天皇・皇族の訪問
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 09:02 UTC 版)
「原爆死没者慰霊碑」の記事における「天皇・皇族の訪問」の解説
昭和天皇は、妻の香淳皇后との戦後初のヨーロッパ7ヶ国歴訪を前に1971年(昭和46年)4月15日に広島県広島市を行幸啓(訪問)し、永野厳雄広島県知事(当時)の説明に対し「原爆にあった被爆患者には、今後も援助、援護の手をさしのべるよう一層の努力をするように」と述べ、4月16日に昭和天皇・香淳皇后夫妻が初めて原爆慰霊碑に参拝した。天皇は被爆者に対し「昭和22年に原爆を受けた当地を訪ね、親しく被災者に面接し、同情に耐えず、世界平和の続く事を思いましたが、今なお療養を続けている多数の市民のある事を聞き、胸のせまる思いがします。今後は互いに明るい気持ちを持って療養を続け、すみやかに元気な姿になる事を希望してやみません」と述べた。 『はだしのゲン』の作者・中沢啓治は昭和天皇の戦争責任を主張しており、これらの行為を「広島の式典に参列する事によって天皇の戦争責任を免罪符にする行為」「大人しい被爆者を選んで天皇の前に座らせて儀式をしている」と激しく非難している。 この時、天皇来広に反発する被爆者青年同盟などと原爆慰霊碑の「安らかに眠って下さい。過ちは繰り返しませぬから」の抹消を求める右翼グループの鋭い対立を生んだ。右翼は「両陛下が慰霊碑に参拝されるのは屈辱だ」 と述べた。同年の3月に被爆者青年同盟、広島部落解放研究連合、広島青年アジア研究会の「三団体連絡会議」(土屋稔代表)の三団体は「天皇の来広は被爆者の怨念を慰撫することにより、被爆者に対する国家責任をあいまいにし、核アレルギーを解消させようとするものだ」と述べ、一方 広島県被団協の森滝市郎理事長は「原爆の問題が人々の記憶から遠のきかけているとき、両陛下においでいただくことは大きな意味がある。できれば原爆資料館を見学していただきたい」 と述べた。 1974年(昭和49年)開催の「秋の園遊会」で昭和天皇は重藤文夫日本赤十字社広島原爆病院院長(当時)に伝言し「患者の方々によろしく伝えて下さい」と激励した。 しかし翌年1975年(昭和50年)10月31日、昭和天皇は記者会見の際に「この原子爆弾が投下されたことに対して遺憾に思っていますが、こういう戦争中であることですから広島市民に対して気の毒であるが、やむをえないことと思います。」と返答し、問題となった。広島県原爆被害者団体協議会(広島県被団協)の森滝市郎は宮内庁に抗議文を送付し、宇佐美毅がそれに返答をしている。 上皇明仁は昭和時代において皇太子明仁親王として皇太子妃美智子(両者とも当時)と共に夫妻で戦後4度も広島県広島市を行啓(訪問)しており、その内の3回、1960年(昭和35年)の8月、1968年(昭和43年)の7月、1978年(昭和53年)の7月に原爆死没者慰霊碑および広島赤十字・原爆病院を訪問している。 また1981年(昭和56年)8月7日には記者会見で、「日本人として忘れてはならない4つの日がある」と発言し、「私は終戦記念日(8月15日、8月6日の広島、9日の長崎の原爆の日、そして沖縄戦が終わった6月23日の4回、毎年、黙祷(黙とう)をしている」「遺族のことなどを考えるとやはり黙祷してしまいます。広島原爆投下の日にはテレビをつけて一緒に黙祷します。戦争は2度とあってはならないことです」と述べている。 1989年(昭和64年)1月7日に昭和天皇崩御(死去)。平成時代に入っての天皇即位後には皇后美智子と共に夫妻で6回にわたり広島県へ行幸啓(訪問)したが、そのうちの1989年(平成元年)9月9日、1995年(平成7年)5月20日および同年7月27日、1996年(平成8年)10月11日、2014年(平成26年)12月4日の計5回、原爆死没者慰霊碑を訪問し、供花している。 また徳仁および皇后雅子夫妻や、秩父宮妃勢津子、高松宮宣仁親王および同妃喜久子夫妻、三笠宮崇仁親王および同妃百合子夫妻、常陸宮正仁親王および同妃華子夫妻、秋篠宮文仁親王および同妃紀子夫妻などの皇族が訪問している。
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