天皇機関説論争と初期民本主義
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「国体」の記事における「天皇機関説論争と初期民本主義」の解説
時代が明治から大正へ変わる時において、統治権の主体が天皇であるか国家であるかについて憲法学者の間で論争が起こり、国体に関わる事なので論壇で大問題となる。事の発端は美濃部達吉の『憲法講話』である。 美濃部達吉は、大正改元の1年前の1911年(明治44年)夏、文部省が開催した中等教員講習会において憲法の大意を講話し、その講演筆記に多少の修正増補を加え、翌年3月付けで『憲法講話』と題して公刊する。同書では国体について次のように説く。 国体に言を借る変装的専制政治の主張を排斥するとして「専門の学者にして憲法の事を論ずる者の間にすらも、なお言を国体に藉りて、ひたすらに専制的の思想を鼓吹し、国民の権利を抑えて、その絶対の服従を要求し、立憲政治の仮想の下に、その実は専制政治を行わんとするの主張を聞くこと稀ならず。〔…〕憲法の根本的精神を明らかにし、一部の人の間に流布する変装的専制政治の主張を排することは、余の最も勉めたる所なりき」と述べる。 君主国と民主国を統治権の主体で区別するのは全く誤りだと論じて「国家それ自身が統治権の主体たるもので、君主国も民主国もこの点においては同様であります。君主国と共和国との区別は、もっぱらこの統治権を行う機関が異なるによって生ずるの区別で、決して統治権の主体の如何によるの区別ではない。これを国体と言っても、または政体と言っても、名前は何らでも宜い訳でありますが、ただ国体という語は、従来一般に国家の成り立ちというほどの広い意味に用いられているのが通常で、教育勅語の中にも『これ我が国体の精華にして』云々という語がありますが、これは決して君主国体とかいうようなことを意味しているのでないことは勿論であります。それであるから国体という語を政体と同じ意味に使うことは、混難を惹き起すおそれがあって、むしろ避けた方が正しいであろうと思います。それはいずれにしても君主国と民主国とは統治権の主体の区別であるとするのは全くの誤りであります」という。 天皇を統治権の主体とする説は国体に反すると論じて「君主が統治権の主体であるとするのは、かえって我が国体に反し、われわれの団体的自覚に反するの結果となるのであります。〔…〕法律上ある権利を有すというのは、その権利がその人の利益のために存していることを言い表わすのであって、〔…〕もし君主が統治権の主体であると解して、すなわち君主が御一身の利益のために統治権を保有したまうものとするならば、統治権は団体共同の目的のために存するものではなく、ただ君主御自身の目的のためにのみ存するものとなって、君主と国民とは全くその目的を異にするものとなり、したがって国家が一の団体であるとする思想と全く相容れないことになるのであります」という。 大臣の輔弼により政治を行うことが日本の国体であると論じて「すべて国務について、君主は国務大臣の輔弼によらなければ大権を行わせらるることが無いために君主は無責任であるのであります。〔…〕我が古来の政体において、藤原氏の時代、武家政治の時代等は勿論、天皇御親政の時代におきましても、その御親政と言うのは、あえて天皇御自身にすべての政治を御専行あらせらるるというのではなく、常に輔弼の大臣が有って、その輔弼によって政治を行わせられたのである。これが実に我が国体の存する所で、これによって国体の尊厳が維持せらるるのであります」という。 帝国大学で美濃部達吉の同僚教授である上杉慎吉は、美濃部の天皇機関説を非難し、この説は天皇が統治権の主体であることを否認するものであり、日本の国体を破壊するものであると指摘する。上杉慎吉は穂積八束の学説を継いで君主国体説に依拠するが、かつては国家法人説・天皇機関説を採っており、1905年(明治38年)の著書『帝国憲法』においてその説を述べていた。同書は1910年(明治43年)4月にも版を重ねていたが、1911年(明治44年)12月付けで公刊した『国民教育 帝国憲法講義』では、君主国体説・国家法人説を維持したまま天皇機関説を放棄する。上杉の新説によれば、機関というのは他人の使用人であり他人の手足である。天皇の意思は最高・独立・絶対的・無制限であり、自己固有の性質によるものである。天皇は国家の機関ではない、という。このように上杉が天皇機関説放棄を明らかにした3か月後に美濃部達吉が『憲法講話』を公刊したのであり、美濃部が同書で「変装的専制政治の主張」と批判したのは上杉の国体論であった。上杉の国体論は、天皇が主権者であることを日本の国体と解するものである。 上杉慎吉は雑誌『太陽』に論文「国体に関する異説」を載せて美濃部達吉に反撃する。上杉によれば、天皇を主権者とする通説に対し美濃部は異説を唱えており、「断じて異説を排斥するの確乎たる自信あり」という。そして上杉は国体について次のように論じる。天皇は統治者であり被治者は臣民である。主権は独り天皇に属し、臣民はこれに服従する。主客の分義は確定して乱れることがない。臣民は統治せず天皇は服従せず。これが国体の解説である。これは穂積八束の説を粗述したものであり、誰もが認めるところでもあるのに、美濃部は独りこれを排斥する。美濃部は天皇を統治権の主体にあらずとし、国家すなわち人民全体の団体を統治権の主体とする。美濃部は我が国を民主国と見なすのである、と。 天皇機関説論争が進行する中、1912年(明治45年/大正元年)7月に明治天皇が崩御する。内務省神社局によれば、日本は国を挙げて悲哀に沈み、慈父を失ったかのように慟哭し、さらに皇室の尊厳に思いを馳せ、ここに皇室を中心とする国体観念に一段の刺激を与えたという。大正時代に入ると、民衆運動が憲政擁護・閥族打破を掲げて桂内閣や山本内閣を倒すために行われる。内務省警保局によれば、この民衆運動は最も顕著なデモクラシー的思想の発露であって、国民思想上の画期として観ることができるという。 明治天皇崩御の前後、井上哲次郎が『国民道徳概論』を著す。これは美濃部達吉『憲法講話』と同様に、前年(明治44年)夏に文部省が開催した中等教員講習会での講義を基にしている。同書では、国体と国民道徳との関係について、日本の国体は万世一系の天皇を基礎として成立し、国法学では主権の所在をもって国体の性質を決めるが、日本の主権は常に皇位にあり、これが憲法制定とともに益々鞏固になったと述べる。また国体と神道との関係について、神道のうち国体に関係あるのは天壌無窮の神勅であり、この神勅が常に日本国民の精神を中心に引き締めると論じる。同書では民主主義が君主国体を調和できることを説いて次のように述べる。 忠君ということに対して、民主というようなことが、段々世に唱道されてきているのであります。中には民本なんという字も使っているが、意味は同じことである。民主主義というようなことは余り大きな声では言わないけれども、何ぞの場合にはそれを言う。しかし民主主義も説きようによっては、君主主義と調和することが出来る。君主というものをチャンと立てて、そうしてこれに対して真心を尽くして仕えるということが人民一般のためになる。すなわち民主主義に合するわけであります。 井上哲次郎は翌年の『東亜之光』2月号でも、民主主義を民本という意味に解釈すれば問題ないとして、次のように述べる。 臣民にヨリ多くの権利を与えるようなことがないというと、いかなる椿事を惹き起こすやも分らぬのであります。民主ということは日本の従来の歴史から見て決して如字的に(文字通りに)了解して言うべきではないのみならず、憲法によってまた然りであるけれども、古来「民は惟れ邦の本なり、本固ければ、邦寧し」というように民本という意味に解釈するのは差し支えない。そうして昔より一層臣民の福利を重んずべきである。これは時勢の変化のためである。 天皇機関説論争でも民主主義は争点の一つになる。人民全体の団体を統治権の主体であるとする説について、上杉慎吉がこの説を民主主義として非難したのに対し、美濃部達吉は、この説を唱える者をすべて民主主義者であるかのように思わせるのは酷い中傷である、と弁じたという。そして上杉は1913年(大正2年)『東亜乃光』5号月に「民主主義と民本主義」を発表し、民本主義と民主主義の用語を厳格に区別して、民本主義は人民のために政治することを意味するが、民主主義は文字通り人民主権論を意味しており君主主義と調和できないと論じる。上杉慎吉によれば、デモクラシーという語は民主(人民主権)の意味にも民本(人民のための政治)の意味にも用いられ、西洋君主国でデモクラシーを称するのは民本の意味であるという。ただし、内務省警保局によれば、西洋でデモクラシーという語が上杉慎吉のいうように単に人民のための政治だけを意味することがあるかどうか不明であり、少なくとも西洋君主国で称するデモクラシーはその意味ではないという。 上杉慎吉からの攻撃に対し美濃部達吉は様々に弁ずる。その中では1913年(大正2年)に『東亜之光』の3月号から5月号にかけて掲載した論文「所謂国体論に就いて」が最も詳しい。美濃部達吉は同論文で以下のように言う(大意)。 このごろ国体論、特に国体擁護ということが盛んに唱えられている。これは実は反立憲思想に他ならない。すなわち憲法が布かれたのに対し、保守的反動思想を抱く一部の人が国体論に名を借りて世を騒がしているのである。国体についての論争ではなく、立憲思想と反立憲思想の争いである。 一つの論点は、統治権の主体についての学理的な問題である。国法学上、国家は統治権を固有する団体であるとし、したがって統治権の主体は国家自身であるとする見解に対し、彼らは我が国体を破壊するものであるといい、我が国体は君主自身が統治権の主体でなければこれを維持できないという。もう一つの論点は実際の政治に関するものである。政党政治や議院内閣政治を我が国体の容れないところであるとし、特に最近の政治の動揺(大正政変)を国体の危機であるとする。実はこれらの問題は国体と関係がない。 我が国は万世一系の天皇これを統治する国体であり、これは動かしてはならない。問題は天皇が国家を統治するという事の解説に係ることであり、少しも国体に触れない。これを触れたとするのは中傷である。 世の国体論者の中には、日本の国家は外国の国家と全く異なるものと考え、日本の国家にのみ特別の見解を採ろうとする者もいるが、甚だしい誤りである。国家の本質の問題は国体論と無関係である。国体は一国特有であり、国家の本質は各国共通である。ゆえに憲法の明文に拘って国家の本質を解しようとするのも誤りである。 君主は統治権の主体であるという考えは、国家を君主の私有物とみなすものであり、我が国体に容れるものでない。君民が一心同体をなし、和衷協同(心を合わせ互いに協力する)、ともに国家の進運を輔翼し、その間に少しも障りがないことが、我が国体である。
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