天皇機関説事件・憲法論と日本国体学会創立
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「里見岸雄」の記事における「天皇機関説事件・憲法論と日本国体学会創立」の解説
昭和6年11月、里見は活動の本拠を京都に移し、活動の主たる任務を、国体の人文社会科学的研究と、天皇論の理論的構成におくことを目指した。さらに研究所開設以来、里見の活動に期待する全国の同志らが、里見に対し結社の創設を希望。昭和7年2月、機関誌『社会と国体』を刊行する機会をとらえ、里見に結合を誓う国体主義同盟が誕生。 このころ、『天皇の科学的研究』『国体の学語史的管見』『天皇統治の研究』を刊行した。また里見の研究は次第に憲法学に進み、『帝国憲法の国体学的研究』、『皇室典範の国体学的研究』を著わした。特に、後者を再校訂して昭和10年に『国体憲法学』と題し、出版して憲法学・法学界に影響を与えた。同年、日本を震撼させた天皇機関説事件が起った。里見は国体学的見地から、右翼の美濃部博士に対する攻撃の非論理性を鋭く批判するとともに、日本憲法学界における継受法学の矛盾を指摘して『天皇機関説の検討』を執筆、一万部を各方面に寄贈した。さらに里見は、国体科学、国体憲法学の立場から、国民啓蒙の必要を痛感し「機関説撃つべくんば主体説共に撃つべし」の題下に、独自の国体明徴、憲法正解運動を全国に展開。溝淵大審院検事、桶田豊太郎九大教授、吉田一枝関大教授等と、憲法上の論争を行った。 昭和11年2月11日、里見の学問的使命の遂行を徹底化するため、国体主義同盟を改組し、日本国体学会を創立。創立奏上式を伊勢大廟前で挙行し、機関誌を『国体学雑誌』と改題。里見の憲法正解全国巡講と共に、日本国体学会の会勢は拡大した。さらに昭和12年4月、本拠を東京に移転。これを記念して、明治大学講堂で「日本国体学会創立一周年記念・日本国体学術大講演会」を開催。里見は、田中智學、山川智応博士に協力を要請し、田中智学門下空前絶後の大講演会を挙行。田中にとっては最後の公開講演となった。里見が、東京移転後に公刊した数々の著作のうち、特筆すべきは『国体法乃研究』である。この書は、菊判1218頁という大著で、主として帝国憲法第1条から第4条までの精緻な研究であった。佐々木惣一博士をはじめ学界から絶賛され、この書によって、昭和16年、里見は立命館大学から法学博士の学位を授与された。
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