天皇楯とは? わかりやすく解説

天皇楯

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 16:15 UTC 版)

天皇賞」の記事における「天皇楯」の解説

プレート)の下賜また、イギリス王室伝統となっている。国を追われ亡命先フランスで馬術磨いたチャールズ2世王政復古成って戴冠すると、ニューマーケット競馬場復興した1665年国王チャールズ2世はタウンプレート(The Town PlateもしくはNewmarket Town Plate)という競走作り、自ら優勝提供した国王自身騎手として優勝したこともある。この競走は「King's Plate女王場合Queen's PlateRoyal Plateとも呼ばれる)」として受け継がれ現存する世界最古競馬の競走である。 明治天皇時代始まった華やかな銀杯下賜は、大正時代勃発した第一次世界大戦の間も絶えことなく30年上続いた。一方その間中国大陸での動乱激しくなり、1931年昭和6年)の満州事変1937年昭和12年)には7月盧溝橋事件8月上海事変相次いで起きた。 その直後である1937年昭和12年9月皇室競馬会対し以後御賞典下賜を年2回とするという通達行っている。この通達により、年10行われていた帝室御賞典は年2回施行になった前述)。そして皇室は、帝室御賞典回数を減らす分、御賞典をより立派なものにすることになる。また同時期、大陸での時局緊迫化によって軍馬需要急増していた。軍部はより強固な馬政統制を行うため全国競馬倶楽部一本化して「日本競馬会」を作った。そして帝室御賞典は、軍部求めスタミナ溢れる馬を作るため、長距離の3,200メートル改められた。 大陸での緊迫した情勢はさらに激しさ増し日中戦争へと発展した1939年昭和14年秋にヨーロッパでドイツ連合軍戦争始め日本に対しては「ABCD包囲網」と呼ばれる経済封鎖1941年昭和16年)より実施され国内ではさまざまな物資不足するようになった。これに伴う金属製品統制を受け、帝室御賞典賞杯同年春から優勝改められた。 新し優勝作成にあたり宮内省東京高等工芸学校教授畑正吉デザイン依頼。これをもとに鋳物師持田次郎金物製作し金メッキ施した2寸(約6センチ)もある菊の紋章と、板金はめこんだ競馬恩賞」の文字ラワン板にあしらった御紋章いわゆる「天皇楯」)となった。 天皇楯の下賜1944年昭和19年)春の「能力検定競走」で下賜辞退したことにより中断し秋に帝室御賞典中止となった

※この「天皇楯」の解説は、「天皇賞」の解説の一部です。
「天皇楯」を含む「天皇賞」の記事については、「天皇賞」の概要を参照ください。

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