天皇機関説事件・国体明徴運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:34 UTC 版)
「国体」の記事における「天皇機関説事件・国体明徴運動」の解説
1935年(昭和10年)の天皇機関説事件をきっかけに国体明徴運動が盛り上がりをみせる。後年(1940年)、東京地裁検事局の思想特別研究員玉沢光三郎は国体明徴運動の影響を次のように論じる。 天皇機関説排撃に端を発した国体明徴運動は、皇国日本における絶対的生命的な根本問題を取上げた一大精神運動であった。しかも言論絶対主義の下に、あくまで合法的に進められたため、各分野における革新分子は期せずして一致してこの運動に参加し、全国的に波及して一大国民運動にまで進展し、三十年来唱導された学説を一挙に葬り去ったばかりでなく、社会の各部層に深甚な反響を及ぼし、思想・政治・教育・宗教等あらゆる部面に少なからざる影響を与えて時代を著しく推進せしめたと同時に、革新運動の一大躍進を招来し画期的成果を挙げしめた。国体明徴運動は著しく国民精神を昂揚せしめて、日本精神の自覚内省を促したと同時に、日本文化の優秀性を認識せしめ、更には日本精神に立脚した新日本の建設、新文化の開拓等の風潮を促進せしめた。 田中耕太郎は戦後に「国体明徴運動こそは思想的に日本を破滅へ導いた過激国家主義の先駆であった」と断じる。
※この「天皇機関説事件・国体明徴運動」の解説は、「国体」の解説の一部です。
「天皇機関説事件・国体明徴運動」を含む「国体」の記事については、「国体」の概要を参照ください。
- 天皇機関説事件・国体明徴運動のページへのリンク