君主国体説
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1891年(明治24年)2月、カール・ラートゲン講義録『政治学』が翻訳出版され、君主国体という訳語が用いられる。ラートゲンはドイツ人政治学者であり、1882年(明治15年)から1890年(明治22年)まで御雇い教師として帝国大学で政治学を講じていた。阪谷芳郎の聴講ノートに「Forms of State and Government」という章がある。翻訳書では「国体及政体」と訳された。 ラートゲンは「国体及政体」で、理論上・歴史上に国家を分類し、その性質・発達を考究しようとするならば、国体・政体・憲法について、その意義・区別・関係を了解する必要があるとして、次のように講義する。 国体とは国家の形式という意味である。国体を定めるというのは、国家統御の主体と客体を定めるという意味である。 君主国体とは、国家統御の主体を君主として、国家と君主がその本体を同じくし、国家統御の客体を国土と国民より成立するものを称する。 民主国体とは、国家統御の主体を国民全体、すなわち国民の総意として、国家統御の客体を国土国民の各個より成立するものを称する。 政体とは政治の形式という意味である。政体を定めるというのは、主権の作用に形式を与えるという意味である。国家がその主権を作用するにあたり、自己の意思によるものを専制政体と称し、既定の憲法によるものを制限政体と称する。 憲法の意義は二種類あり、一つは材料上・性質上の意義、一つは形式上・効力上の意義である。性質上から定義すれば憲法とは主権の本体と作用、すなわち国体と政体を規定する諸原則の全体である。効力上から定義すれば憲法とは主権者が憲法と称する法令の全体である。 憲法学者の穂積八束は当初、君主国体の概念を憲法学で用いることに否定しており、1892年(明治25年)の講義録で「国体の区別は、君主国、共和国、立憲国等の名称をもってする例ありといえども、これ皆政治論上の区別にして、法理に関係なきものなり」と断じ、翌年も繰り返し同じ趣旨を講する。 時の文部大臣井上毅は、国民教育の基礎として日本古来の国体と明治の政体との要旨を授ける必要があると考えていた。1893年(明治27年)4月、井上毅は山崎哲蔵という人物に初めて連絡をとり食事に誘う。山崎哲蔵はラートゲン『政治学』の翻訳者であり、君主国体という訳語を生み出していた。井上毅は同年夏に穂積八束に指図して小冊子を執筆させ、そのなかで君主国体についても論じさせる。井上毅はその公刊を計画していたが、その点検を終えたところで病死したため公刊の計画は頓挫する。ただ、穂積八束はこの年の講義から、およそ憲法を論ずるにあたっては国体の如何に注目すべきことを講じ、翌年の講義で憲法学上の君主国体説を明確にする。講義に曰く、国体は主権の所在によって区別され、政体は主権を行使する方法によって区別されるのであり、主権が一人に掌理されるものを君主国体と称し、我が帝国の国体は純粋なる君主国体である、と。
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