君側をいったん離れる
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/31 08:25 UTC 版)
茶道坊主から藩主側近として頭角を現しだした調所に対して、周囲からの風当たりは強かった。この様子を見た重豪は、文化15年(1818年)1月、藩の対外的使者を業務とする使番へ配転させる。役職としては昇格ではあったが、藩主側近から外れることは調所としては不本意であった。当時、島津斉宣の転居が計画されていて、重豪は転居先の図面を調所に見分させるよう命じた。調所がその図面を開いてみると重豪の自筆で「心を屈せずして勉むべし」と記してあったという。 文政5年(1822年)3月、調所は鹿児島町奉行に配転となる。鹿児島は武家人口が約7割を占め、町人が少なかったこともあって、町人を管轄する町奉行は地位的には高かったが藩にとって重要な職務というわけではなかった。しかしこの町奉行時代、後に主導していくことになる薩摩藩の天保改革において、調所のブレーンとして活躍する町人たちと知り合うことになる。
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