明治時代のプルーフ硬貨
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「日本の金貨」の記事における「明治時代のプルーフ硬貨」の解説
造幣局の記録には明治時代、プルーフ硬貨を製造したという公式な記録は残されていないが、造幣局創業当時、英国人技師中心に貨幣製造が取り仕切られ、また、英国では古くから貨幣製造にあたりプルーフ硬貨の製造を伴うことが伝統であったことから、明治初期に贈答用プルーフ硬貨を製造した可能性は高い。発行枚数の記録に見られる、明治8年12月製造の明治9年銘や、明治10年銘および明治13年銘など、数十枚という製造数は贈答用貨幣発行が目的との見方が出来る。 明治5年(1872年)11月の改正により小型化された金貨は、1円金貨の明治7年銘と5円金貨を除いて鋳造枚数は非常に少なく、何れも新しい極印と鋳造機の試験、並びにプルーフ硬貨の試作として鋳造されたようであり、これらの硬貨はコレクターの間では非常に高値で取引されている。5円金貨は、米国の5ドル金貨や英国のソブリン金貨とほぼ同量の純金を含んでおり、国際的に見てもスタンダードなサイズであり外国人にも受け入れられ易く、他の額面の金貨に比べ長期に渡って鋳造、発行された。 明治26年(1893年)5月、アメリカのシカゴ万国博覧会に日本の貨幣を展示することになり 、1円〜20円の5種類の金貨が各2枚ずつプルーフ硬貨として鋳造され出品された。これが日本の硬貨における最初の公式なプルーフ硬貨である。金貨は全て明治25年銘であり、5円金貨を除いてこの年の発行はなかったため、新たに極印を整備して鋳造された。これらの明治25年銘の貨幣は各々1枚ずつが造幣博物館に展示されている。 先に述べた通り、プルーフ硬貨は洋式貨幣が鋳造開始された明治4年(1871年)に既に試験的に鋳造が行われ、明治3年、4年銘の一部の金貨には未完成ながらプルーフ硬貨が存在する。また、明治6年(1873年)に金貨と銀貨の極印が変更された時にも、プルーフ硬貨が試験的に鋳造され、磨き上げられた極印がテストされたため、特にこの年号の5銭銀貨と5円金貨には、やはり未完成ながら明らかなプルーフ硬貨が存在する。小型化された金貨は各額面ともに様々な工夫をして品質の高い美しい硬貨を鋳造する技術が試みられた。最近のプルーフ硬貨のような輝きの無いものも多いが、明治13年銘の20円金貨や2円金貨はミントラスターの生じていない完全なプルーフ貨である。これらのプルーフ硬貨の鋳造に関する詳細な記録は残っていないが、明治6年銘の5円金貨は、約315万枚発行されたが、現存する硬貨のおよそ1%程度がプルーフあるいはプルーフライク硬貨である。造幣局によると当時はプルーフ貨という概念は無く、ただ、極印を十分研磨した明治5年(1872年)以降の金貨では、極印を2度打ちすることも行われたようだ。従って初期に鋳造された硬貨については、コインの地肌が光沢のあるプルーフ状であるが、鋳造を重ねるうちにミントラスターが生じ、曇ったような光沢の無い地肌になる。また、当時の金貨や銀貨の極印には表面を特別に磨き上げた極印と、通常の極印の双方で鋳造が行われたようで、その極印も複数存在したため、この明治初期の金貨や銀貨においては、様々なバラエティが存在する。これらの極印の一部は、試鋳貨の極印と共に造幣博物館に保存展示されており、鏡のように磨き上げられたプルーフ硬貨の極印も見ることができる。銀貨においても先に記した明治6年銘の5銭銀貨のほか、明治8年、9年、10年銘の10銭、20銭銀貨にもプルーフ貨が存在する。 なお、新金貨においてもプルーフ硬貨の製造は行われ、造幣博物館には昭和7年銘の完全なプルーフの20円金貨が保存展示されている。
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