明治時代の公用文改革
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/06 22:20 UTC 版)
「公用文作成の要領」の記事における「明治時代の公用文改革」の解説
明治新政府により法制度の中身が中国に由来する律令制から西洋に由来する近代法制に大きく変わたのに伴い、法令の表記も漢文から漢字かな交じり文に大きく変わっていった。この改革は、明治政府の中枢に漢文の十分な教育を受ける機会の無かった薩摩や長州の下級武士層が数多く入ってきたことと関連しているとされることもあるが、前島密による漢字御廃止之議など、幕末から明治にかけて唱えられた国語改革も公用文の改革を主要な対象として考えていたと見られ、明治政府の行った法令文の表記改革もそれらの影響をうけているとする見解もある。ところが、江戸時代から明治時代にかけては社会の変化、さらには言文一致運動などの影響もあって、一般社会で通常使用される日本語がどんどん変わっていくことになった。そのために、漢文からは大きく変わった漢文訓読体と呼ばれる当時の公用文の文体も、知識階級の人々によって書き言葉としては一般社会でもそれなりに使われてはいたものの、当時の一般の人々が日常使う話し言葉や書き言葉と比べると、漢文臭の非常に強い読みにくいものであった。そのため、法令や公用文の文体をさらに分かりやすいものに改めて行かなければならないとする動きは何度か起こっていた。明治民法典の起草者の1人であり「日本民法の父」と称された穂積陳重は、その著書『法典論』の中で、法典の文体について、おそらくは当時としては主流であったと考えられる「教養の無い一般大衆が容易に理解できるようなやさしい文体の法令は、法令としての威厳を損なうものである。」といった考え方を批判する形で近代的な法治主義と関連付けて「法典の文体は専門家だけが理解できるものであってはならず、一般大衆が理解できるものでなければならない」という主張を展開している。 戦前にさまざまに検討された漢字制限論も歴史や伝統を重んじる保守的傾向の人々からの抵抗が強かったが、公用文を対象にする場合にはさらに、天皇や皇室に関連する言葉の言い換えが重要な問題になった。これらの言葉を別の漢字や仮名に言い換えることについての抵抗が強く、中でも「不磨の大典」とされた大日本帝国憲法で使われている言葉・漢字や「教育勅語」や「軍人勅諭」といった「天皇のお言葉」の中で使われている言葉や漢字について正式に改正することなく臣民である自分たちが勝手に別の言葉や漢字に言い換えることなど制度的に出来ないとする主張を覆すことは困難であった。そのため紆余曲折の上成立した当時の漢字制限のための漢字表には皇室関係の用語に使用される漢字などが一般生活での使用頻度とは関係なく入ることになり、それらの漢字表をもとに戦後になって限られた時間の中で改めて作成された当用漢字表にも天皇の自称である「朕」といった字が入っているなど、その影響が残っており、さらには当用漢字表を改正する形で制定された常用漢字表にもその影響が一部に残っている。
※この「明治時代の公用文改革」の解説は、「公用文作成の要領」の解説の一部です。
「明治時代の公用文改革」を含む「公用文作成の要領」の記事については、「公用文作成の要領」の概要を参照ください。
- 明治時代の公用文改革のページへのリンク