明治時代の合併の変遷
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/19 04:57 UTC 版)
「中浜 (村上市)」の記事における「明治時代の合併の変遷」の解説
1873年(明治6年)7月に柏崎県と新潟県が合併した際、中浜村は第二十五大区、小十区、四番組に所属。当時の四番組の戸数は122戸で人員が722人。十小区戸長は大毎村の加藤九二太郎。四番組要掛(戸長の補佐)は堀之内村の大滝伝太郎が務めていた。その後、1878年(明治11年)に郡区町村編制法が公布され翌年から施行。大小区制度が廃止され各町村に公選の戸長を置く必要があったのだが、当時の各町村に役場を設置し職員を置くことは財政的に困難であったことから、1884年(明治17年)に数ヵ町村を区域とする連合戸長役場を設置し、前述した問題の改善を図った。北中村・小俣村・府屋町・勝木村・脇川村、5つの区域に分けられ中浜村は府屋町に所属となった。 1889年(明治22年)、当時の新潟県の町村数は計4,593ヵ町村と全国1位の数であり、小規模な町村が散在している現状から、4月1日に市町村制が施行された。その結果、816市町村にまで減った。尚、中浜村の属す岩船郡の町村数減少率は県内3位の83.4%だった。こうして、岩船郡に五か村(黒川俣村・中俣村・大川谷村・八幡村・下海府村)が誕生。中浜村は大川谷村に属した。尚、合併時の中浜村の人口は251人と大川谷村に属す12村の中では2番目の人口規模だった。 1901年(明治34年)、中浜が属する大川谷村が中俣村と合併し大川村となる。
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