明治時代の創作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/07 02:08 UTC 版)
前節の通り、その起源については確かな在銘槍も史料も存在しないが、明治時代に以下のような創作が作られて、広まるようになった。 なお、以下の文に「これが肥後延寿派の刀工の起源とされる」などとあるが、延寿国村の在銘刀には建治2年(1276年)のものがあることから明確に偽説である。現存する在銘刀の分布からして、実際は元寇およびその再襲に備えて来派の刀工を招聘したのが延寿派の起源と考えられている。 長い柄の先に主に突くことを目的とした刃を装着した武具、現在では「槍」に分類される武器そのものは古来より日本に存在していた(「矛」(「鉾」とも)と呼ばれた)が、平安時代以降、日本の戦争における戦法は馬上からの弓矢や、薙刀、野太刀によるものが主流であり、戦闘自体も騎馬に乗った武士とその徒となる者が組となった少人数同士で行われるもので、多人数の集団による戦闘は一般的ではなかった。そのため、武具も個人が単独で用いるものが主流であり、槍のような集団で用いるものはそれほど普及はしていなかった。 鎌倉幕府の滅亡と建武の新政の崩壊の結果、北朝方と南朝方に分かれての戦乱が激化すると、南朝方であった菊池氏は新田義貞の指揮下に入り、各所で足利勢と戦った。 建武2年(1335年)11月、箱根・竹ノ下の戦いにおいて、足利尊氏の弟として知られる足利直義の率いる兵3,000名と戦った菊池勢1,000名は足利勢に圧され、弓、薙刀の大半を失い敗走寸前の状況に陥った。 この際、菊池勢を率いる菊池武重が、竹藪から各自、手頃な竹を6~7尺(約180~210cm)から2間(約364cm)ほどに切らせ、それに各自が腰に差している短刀を結わえて作らせた即席の槍を発案した。これを用いて菊池勢は反撃に討って出、これまで見た事のない武器を用いた相手に足利勢は大いに苦戦する。結果、窮地に陥っていた菊池勢は1,000名の兵で3,000名を敗走させた。従来の弓や薙刀と違い、集団で用いることでより戦闘力を発揮するこの槍の登場は、その後の日本の戦法に大きな影響を与えた。 この戦いから「菊池千本槍」の逸話が生まれ、菊池氏の名を大いに高めたと共に、“劣勢の側が創意工夫を以って多勢を征する”事の例として、武家の精神的支柱の一つとされた。 その後、武重は大和国より肥後国菊池に移住した刀鍛冶・延寿国村(えんじゅくにむら)に、この武器を元にした槍を改めて作らせた。これが肥後延寿派の刀工の起源とされる。 以後、菊池氏を中心に主に九州でこの様式の槍が多く作られ、「菊池槍」の名で用いられたが、より槍として洗練された形状のものが普及すると槍の様式としては廃れ、多くは短刀に仕立て直されて再び短刀として用いられた。
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