明治時代の地図に見る旧道の位置
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/30 14:48 UTC 版)
「巨福呂坂」の記事における「明治時代の地図に見る旧道の位置」の解説
鶴岡八幡宮の西の階段の下、今は車のお払いをするところから左に入る小路があり、ここを西に曲がるのが旧道の入口である。それをまっすぐ行くと横須賀水道トンネル、正式には「巨福呂坂送水管路ずい道」の出口があり、その右の急坂を登ると左側に「青梅聖天社」があり、そのためこの坂は聖天坂とも言われる。その少し先にはここがかつては鎌倉から遠方への道であったことを物語る庚申塔や道祖神があり、現在ではこれが唯一の古道の証明となっている。その少し先から私有地となっているため通行不可となっているが、仮に通れたとしても先はすぐに断崖絶壁となる。 1907年(明治40年)大森金五郎著「歴史地理大観・かまくら」付録「鎌倉沿革図」と1882年の「明治15年陸軍参謀本部 2万分1フランス式彩色地図」、そして現在の国土地理院1/25,000地形図を比較すると、少なくとも1868年(明治初年)、おそらく江戸時代末の巨福呂坂道旧道は巨福呂坂洞門(画像2番目)の真上で1886年(明治19年)に明治政府が新たに開鑿した新道(現在の車道と同じ位置)に交わり、若干蛇行しながら建長寺前に降りている。
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