明治時代から昭和戦前まで
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 09:45 UTC 版)
「日本語訳聖書」の記事における「明治時代から昭和戦前まで」の解説
「我主イエズスキリストの新約聖書」も参照 プロテスタントと同時期に日本再布教に乗り出したカトリック教会ではあったが、教義上の理由から聖書翻訳を急務としたプロテスタントに比べて、翻訳事業は立ち遅れた。また、1865年以降、長崎県とその周辺で農民や漁民の隠れキリシタンが数万人という規模で発見されるに及んで、その司牧が教会の急務となり、翻訳事業に取り掛かる余裕が無くなってしまったことや、フランス系のパリ外国宣教会中心で、英米中心のプロテスタントに比べて知識人層への訴求力が弱かったとされることなども挙げられる。 当初は布教のための断片的な翻訳が行われるにとどまった。その例としては、ベルナール・プティジャンが手がけた『後婆通志與』(ごばつしよ、1873年)などがある。これは、禁教前の『スピリツアル修行』の復刊であり、福音書中のキリストの受難に関するくだりの訳を含んでいる。1895年になってようやくカトリック教会の聖書が『聖福音書 上』として出版される(下巻は1897年)。パリ外国宣教会のミシェル・スタイシェン(Michael Steichen, MEP)の口述を元に高橋五郎が翻訳したとされるものだが、ヘボンの協力者であり立教学校教授だった高橋がどのような経緯でカトリックの聖書翻訳に協力したのか、その事情は分っていない。なお、高橋は他にもクルアーンの翻訳などにも関与した。いずれにせよ、この事実は明治日本におけるカトリック知識人の少なさを示すものとされる。底本としたのはヴルガータ(カトリック公式のラテン語聖書)であるが、翻訳委員社中の明治元訳よりも遡った1872年のヘボン訳の影響が認められる。 これとは別にエミール・ラゲ(Emile Raguet, MEP)がヴルガータを元にネストレ版ギリシャ語聖書を参照しながら新約聖書の新訳に挑戦し、1905年の四福音書の翻訳に続き、1910年に近代以降のカトリックとして初めて新約聖書全体を発行した(通称・ラゲ訳)。これは私訳ではあるが、東京大司教の認可を受け、その後長く日本カトリック教会では標準訳のごとく扱われた。注釈を入れないことを伝統とした聖書協会のプロテスタント訳とは異なり、欄外に引照出典聖句、本文の意解、別訳、ラテン語訳とギリシャ語本文との異同などを簡潔明瞭に示している。また、日本人協力者の貢献の度合いなどは不明ながら、本文も流麗かつ学術的な装いも備えた日本語とされており、プロテスタントの中からも、藤原藤男のように「文章的にも、文体的にも、非常に優れたもの」と評する者がいる。藤原はまた、山上の垂訓の訳については大正改訳よりも優れていると評している(訳例は#マタイ福音書の比較参照)。
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