マタイ福音書の比較
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マタイ福音書第5章3節・6節について比較する。比較対象は協会訳のほか、初期の主な翻訳でヨハネ福音書による比較が出来ないものや、現代の敷衍訳、特定の視座を重視する訳、方言訳などである。なお、3節は出だしに鍵括弧の開始(「 )が付いている場合があるが、引用に際しては一律に省いた。また、改行は無視した。 翻訳名訳文(上段が3節、下段が6節)バレト写本(1591年)スピリトの貧者は天の国を持つによってベアトなり。 ジュスチイサの飢渇を忍ぶ者は活計をもって養ひ給ふべければ、ベアトなり ウィリアムズ訳(写本1850年)ヒンナ コヽロノ ヒトビトワ テンノクニヲ モトメラルナリ ハナハダ 義ニ シタガウコトヲ ヒモジイカワキ アル ヒトワ メデタクアリ コレ ソノ ヒトワ 萬服 アリ ベッテルハイム訳(草稿、1850年代)コヽロ ムナシクスル モノハ サイワイ アリ、ヨツテ テンゴクハ イマシ ソノ ヱル トコロ ナリ 饑渇(キカツ)スルガゴトクニ 義(ギ)ヲ シタフ モノハ サイワイ アリ、ヨツテ マサニ アクコトヲ エントス S・R・ブラウン訳(1863年ごろ)心のうちまづしき物は福ひなりそれその人の国(は天国)なり うへかわく如く義をしたふ物は福ひなりそれ其の人はあかさるものなり ゴーブル訳(1871年)それ こゝろに まづしき ものは さいわい じや けだし てんの こせいじ そか ひとの もの なり ぎを したい うゑ かつゑる ものは さいわい じや けだし その ひと みちませう N・ブラウン訳(1879年)こゝろ へりくだる ものは さいはひ なり、これ てんの みくには かれらの もの なれば なり たゞしきを したふて うゑ かはく ものは さいはひ なり、その ひとは みてらる べきに よつて なり 明治元訳(1880年)心の貧しき者は福(さいはひ)なり天國は即ち其人の者なれば也 饑渇(うゑかわく)ごとく義を慕者(したふもの)は福(さいはひ)なり其人は飽(あく)ことを得べければ也 ラゲ訳(1910年)福(さいはひ)なるかな心の貧しき人、天国は彼等の有(もの)なればなり。 福なるかな義に飢渇く人、彼等は飽かさるべければなり。 大正改訳(1917年)幸福(さいはひ)なるかな、心の貧しき者。天國はその人のものなり。 幸福(さいはひ)なるかな、義に飢ゑ渇く者。その人は飽くことを得ん。 口語訳(2分冊版1953年)こころの貧しい人たちは、さいわいである。天国は彼らのものである。 義に飢えかわいている人たちは、さいわいである。彼らは飽き足りるようになる。 キリスト新聞社版口語訳(1952年)靈の貧しい人々は幸(さいわい)である、天國はその人たちのものである。 義(ただ)しいことに飢えている人々、渇いている人々は幸(さいわい)である。その人たちは滿たされるであろう。 塚本虎二訳(1963年)ああ幸いだ、神に寄りすがる“貧しい人たち、”天の国はその人たちのものとなるのだから。 ああ幸いだ、神の義に飢え渇いている人たち、かの日に満足させられるのはその人たちだから。 フランシスコ会訳(1966年)自分の貧しさを知る人は幸いである、天の国はかれらのものだからである。 義に飢えかわく人は幸いである、かれらは満たされるであろう。 共同訳(1978年)ただ神により頼む人々は、幸いだ。天の国はその人たちのものだから。 御心にかなう生活に飢え渇いている人々は、幸いだ。神が満たしてくださるから。 リビングバイブル(1975年)自分の貧しさを知る謙そんな人は幸福です。天国はそういう人に与えられるからです。 神様の前に、正しく良い者になりたいと心から願っている人は幸福です。そういう人の願いは完全にかなえられるからです。 前田護郎訳(1983年)さいわいなのは霊に貧しい人々、天国は彼らのものだから。 さいわいなのは義に飢え渇く人々、彼らは満ち足らわされようから。 柳生直行訳(1985年)神によろこばれるほんとうに幸福な人は、だれだと思うか。ほんとうに幸福な人、それは自我を捨てた人たちである。天国は彼らのためにあるのだ。 ほんとうに幸福な人、それは飢えかわくように神との正しい関係を求める人たちである。 新共同訳(1987年)心の貧しい人々は、幸いである、天の国はその人たちのものである。 義に飢え渇く人々は、幸いである、その人たちは満たされる。 本田哲郎訳(1997年)心底貧しい人たちは、神からの力がある。天の国はその人たちのものである。 正しい道に飢え渇いている人は、神からの力がある。その人は満たされる。 コテコテ大阪弁訳(2000年)心の貧乏なもんは幸せなんやで、神はんの国はそん人らのもんやさかい。。 義で喉がえろう乾くもんは幸いなんや、そん人らは満足するからや。 ケセン語訳(2002年)頼りなぐ、望みなぐ、心(こゴろ)細い人ァ幸せだ。神さまの懐(ふとゴろ)に抱(だ)がさんのァその人達(ひだち)だ。 施(ほどゴ)しにあだづぎそごねで、腹ァ減って、咽ァ渇(かゑ)ァでる人ァ幸せだ。満腹(くッち)ぐなるまで食(く)ァせらィる。 尾山令仁訳(初版1983年、10版2004年)ああ、なんと幸いなことでしょう、心のへりくだっている人たち。神様が、その人たちに御国(みくに)を下さっています。 ああ、なんと幸いなことでしょう、御心(みこころ)を飢え渇くように求める人たち。神様が、その人たちの心を満たしてくださいます。
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