キリスト教伝来から19世紀初頭まで
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「日本語訳聖書」の記事における「キリスト教伝来から19世紀初頭まで」の解説
「キリシタン版」も参照 キリスト教は、1549年(天文18年)に日本へ伝えられた。フランシスコ・ザビエル (Francisco Xavier, SJ) の日本布教のきっかけとなったヤジロウの書簡から、ヤジロウがマタイによる福音書を(部分的にせよ要約的にせよ)翻訳した可能性はあるものの、実物は残っていない。1563年(永禄6年)頃までには、イエズス会士のフアン・フェルナンデス(J.Fernandez, SJ)が、『新約聖書』のうちの四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)を翻訳していたらしいが、平戸の北部にある度島での火災で原稿が焼失してしまった。 その後、『日本史』などの著作で知られるルイス・フロイス(Luis Frois, SJ)が、典礼用に四福音書の3分の1ほどを訳すなど作業を続け、1613年(慶長18年)頃までにはイエズス会が京都で『新約聖書』全体を出版したらしいことも確認されている。しかし、このイエズス会訳新約聖書は現存しない。日本語訳聖書の現存する最古の断片は、アレッサンドロ・ヴァリニャーノが編纂した『日本のカテキズモ』(カテキズム)の訳稿に近い和文で、ポルトガルのエヴォラ図書館の古屏風の下張りから発見された。1580年前後と推測される最古の断片には、旧約聖書のコヘレトの言葉(3章7節)、イザヤ書(1章11節、16-17節)、シラ書(2章12節ほか)の断片が含まれる。他にも、福音書の受難物語部分をまとめた『御主ゼス キリシト御パッションの事』はフェルナンデスの訳稿焼失の前後にその写本が各地の教会で読まれていたらしいことが窺われる。これは1591年にバレト (Manoel Barreto, SJ) がまとめた、いわゆる「バレト写本」や、1607年に長崎で刊行されたローマ字本『スピリツアル修行』の中にも見出すことが出来る。これら二書に収められた『御主ゼス キリシト御パッションの事』はほぼ同一であり、フェルナンデス訳とは別に某イエズス会士によって訳されたらしいが、名前は伝わっていない。以下、『スピリツアル修行』から、『御主ゼス キリシト御パッションの事』を一部引用する(マタイ26:26-29,一部ルカ22:19挿入)。 パンを取り挙げ、文(もん)をとなえ、割り給い、御弟子達に賜り、これわわが身肉なり、服せられよとのたまひて:またカリスを取り上げ給い、御礼あって御弟子達に下されのたまいけるわ:各々これを飲まれよ;汝達(なんだち)と数多の人の科(とが)を送るべきために流すべき新しきテスタメントのわが身の血なり。汝達われを思い出すためにかくの如くいたされよ — 『御主ゼス キリシト御パッションの事』 『バレト写本』には、福音書の様々な抜粋が含まれており、その分量は福音書全体のおよそ3分の1に及ぶ(訳例は#マタイ福音書の比較参照)。ほか、カテキズムをまとめた『どちりなきりしたん』なども刊行された。しかし、日本におけるキリスト教は、前述のイエズス会訳新約聖書の出版がなされた頃から厳しく禁止された。1630年(寛永7年)にはキリスト教関係の書物輸入が禁じられ、少なくとも表面上キリスト教文献は消えた。もっとも、漢籍やオランダ書のキリスト教文献が小規模ながらも密輸されており、聖書に関する知識は細々と日本に入っていた。また当時、ヨーロッパ由来の歴史書には世界の起源を聖書に依拠している例も少なからずあり、その影響を強く受けた山村昌永の西洋史叙述は幕末までの西洋史書の土台となった。のみならず、蘭学者にはキリスト教に理解を示していた例が見られ、中には、平戸藩領主・松浦静山のように、聖書の注解書(現存分だけで14巻)を手に入れて密かに蘭学者に翻訳させていた例もある。また、復古神道の大成者である平田篤胤が著した『本教外篇』の中には、山上の垂訓そっくりの記述が現れる。これは、漢籍のキリスト教文献からの剽窃であることが実証されている。 平田篤胤『本教外篇』義の為にして。窘難を被るものは。すなはち真福(にて)その己に天国を得て処死せざると為るなり。 山上の垂訓(文語訳マタイ伝)幸福なるかな、義のために責められたる者。天國はその人のものなり。(マタイ5:10) なお、篤胤は国生みの神話をアダムとエバに対比させることもしている。
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