日本布教
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 12:19 UTC 版)
フランシスコ・ザビエルが日本に渡来して布教を始め、その後彼の所属するポルトガル系イエズス会に所属する宣教師が相次いで来日して布教が進められた。 当初は、日本がポルトガルの布教地という明確な意識は無かったが、イエズス会の布教実績に基づいて、日本にポルトガルの布教保護権がおよぶことが法的に定められた。ポルトガル国王の布教保護権は、1514年に教皇レオ10世の勅書によって東アジアにまで拡大し、1534年にはゴア司教区が、1557年にコチン司教区とマラッカ司教区が、1575年にはマカオ司教区が設置された。マカオ司教区の設定を決めた1576年1月23日付教皇グレゴリウス13世の大勅書には、日本が同司教区に含まれており、これにより日本の教会にポルトガル国王の布教保護権がおよぶこと、その保護者がポルトガル国王であることが確定した。その後、1588年(天正16年)には府内司教区(現・大分市)がポルトガル布教保護権の下に設置された。 しかし、日本はポルトガル圏に属していながら現実にはポルトガルの植民地ではなかったことと、距離的な問題から、ポルトガル国王の日本キリシタン教会への経済支援は十分なものにはならなかった。国王が支給する年金は2000ドゥカートだったが、1570年代まではほぼ滞りなく支給されていたのが、1580年代以降は遅延、または支払われなかったり、支払われても日本まで届かなかったりといったことが多かった。 そのため、イエズス会は貿易に携わって、日本での活動費を独自に調達することとなった。マカオのイエズス会司教カルネイロは1570年(元亀元年)に生糸の貿易商人の輸出カルテルを設立。イエズス会の財務担当官(プロクラドール)が生糸を売りさばき、活動資金獲得を行なった。ポルトガル国王の布教保護権からの自立を模索したイエズス会は、大村純忠たちキリシタン大名の保護下での布教を進めていった。
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