キリスト教会史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 01:29 UTC 版)
最初に名前が知られた主教はゾシムス(433年頃)である。6世紀には、地震で破壊されたが(プロコピオス『秘史』より)、オフリド近隣で生まれたという東ローマ皇帝ユスティニアヌス1世によって再建された。ユスティニアヌスによって町はユスティニアナ・プリマと呼ばれたという(彼が建てた新しい都市のうち最も重要な都市として)。しかし歴史家デュシェーヌは、別のイリュリアの開拓された町スクピがこのユスティニアナ・プリマだと主張する(Les églises séparées, Paris, 1856年 240)。新たな都市がイリュリクム道の都となり、政治の便宜上、市はイリュリア、すなわち帝国の南部ドナウ地域(南部ハンガリー、ボスニア、セルビア、トランシルヴァニア、モルダヴィア、ワラキア)のキリスト教会中心地にされた。ユスティニアヌス1世は、ローマ教皇アガペトゥス1世かシルウェリウスからの十分な承認を、この処置に対してすぐに得ることはできなかった。キリスト教会の権限の侵害に加え、皇帝の行いは、イリュリア地方における教皇の使徒座の代理として、テッサロニキが古くから有していた権利を損なうものとなった。それにもかかわらず、新たな司教座は、教会の自主独立特権、またはキリスト教会の独立特権を主張し、事実上獲得したうえ、その長い変転の歴史を通じて、地位を保持し、あるいは保持しようと努めたのである。ユスティニアヌスから圧力を加えられた教皇ウィギリウスは、世俗領土の広範な管内におけるユスティニアヌス・プリマの府主教による総主教権の行使を認めた。しかし、教皇グレゴリウス1世は、ローマ教皇の主教座に対する他のイリュリア主教たちと同様に、ローマへ従属するものとして同地の府主教を扱ったのだった。 7世紀のアヴァール人とスラヴ人の侵入は、この古代の信仰・文明化中心地の荒廃をもたらし、2世紀にわたって府主教としての特性は停止状態になった。 しかしイリュリアにおいて新たにブルガリア人の改宗が進んだ後(864年)、主教座は、アクリダという名の下で再び卓越した地位を得ることとなった。ギリシャ人宣教師らがこの地域で最初にキリスト教教義を説いて回っていたが、ローマからも大司教が送られた。ブルガリア人が、キリスト教信条と規律における事柄の公的な導きと勧告を受けるようになったのもその頃である。ニコラウス1世 (在位:858年-867年)の書いたResponsa ad Consulta Bulgarorumは、それを示すものの一つであり、中世の教会法に関する文書のうち最も影響を及ぼしたものの一つとされる . しかし、ブルガリア王(クニャズ)ボリスはすぐにビザンティンの影響に感化された。第4コンスタンティノポリス公会議が869年に開催された際、ブルガリアは東ローマ帝国のコンスタンディヌーポリ総主教庁に編入され、870年にラテン人の宣教師らが追放された。それから東ローマ帝国の府主教がオフリドを管掌するようになった。オフリドはブルガリア皇帝サムイル時代に帝国の首都となった。10世紀には好戦的な支配者たちの遠征により利を得て、オフリドは東ローマ帝国に新たに含まれた領土の府主教座となった(拡大したマケドニア地方、テッサリア、トラキア)。ブルガリアがフォティオスの分離(ローマとコンスタンティノープル両教会の対立)において9世紀終わり頃からコンスタンティノープル側につくと、オフリドの主教座は西方教会と教皇の影響から脱した。 1018年にブルガリア帝国は東ローマ皇帝バシレイオス2世によって崩壊させられ、バシレイオス2世はオフリドとコンスタンティノープルとの関係をより緊密なものとした。ここにオフリドはブルガリアのオフリド府主教座となった。1053年、オフリド府主教レオン(en:Leo of Ohrid)は、ラテン教会に対抗してトラーニのヨハネへ、コンスタンティノープル総主教ミハイル・キルラリオスと同意の上回覧状を送った。1078年にオフリド府主教テオフュラクトスは、高名な中世ビザンティン聖書解釈者の一人であった。彼は自ら書いた文通において、オフリド主教座の伝統的独立性を主張した。コンスタンティノープル総主教は、コンスタンティノープルから独立した主教がブルガリアにおいて叙聖をする権限はないとテオフュラクトスは述べた。実際には、オフリドはこの時期にコンスタンティノープルやローマと交流を持つことは稀であった。しかしローマの司教座に対してのオフリドの感情は友好的というには遠く、14世紀にオフリド主教アンティモスは、父なる神と子から聖霊が発出するという説に反対する旨の記述を残していることがわかっている(フィリオケ問題参照)。こうした中、ラテン人宣教師たちが14世紀から15世紀にかけオフリドに現れた。その多くがフランシスコ会の聖職者で、彼らはこの地方でのローマ教会支配権の保護を任務としていた。13世紀、名の知られた裁判官デメトリオスがオフリド大主教となった。 コンスタンティノープル総主教サムイルは、オスマン帝国のスルタン・ムスタファ3世の依頼で、1767年に独立正教会としてのオフリド府主教座を廃止した。その権威の絶頂において、オフリド府主教座の権威の下には10の府主教座と6の主教座が数えられた。
※この「キリスト教会史」の解説は、「オフリド」の解説の一部です。
「キリスト教会史」を含む「オフリド」の記事については、「オフリド」の概要を参照ください。
- キリスト教会史のページへのリンク