キリスト教伝道者としての活動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 09:49 UTC 版)
「八巻正治」の記事における「キリスト教伝道者としての活動」の解説
キリスト教の大変に熱心な信者でもあり、香川県在住中には『ラブリー・チャペル』と称した福祉を専門とする教会を牧師として運営していた。妻・益恵(旧姓・服部)も教会伝道者として精力的に布教活動を行っていた。しかし八巻と妻・益恵はキリスト教の布教活動を懸命に行っていたにも関わらず次のような悲嘆にくれる妨害を受けたことを記している。「牧師活動を行ったことでしかし時には心ない学生から赤ペンで『八巻は教会に行くことを強制している!』などといった悲しい手紙が妻に届いたことさえありました。また研究室のドアに張ってある教会案内が傷つけられたこともあります。そうした迫害にも近い悲しい出来事はいっぱいあります。」と述べ、学生の信仰に対する無理解とそれをキリスト教系の大学でありながら問題視しない大学の管理運営に対して苦言を呈している(『前掲書』pp.125)。一方で八巻は『聖書とハンディキャップ』の中で「精霊様のお働きを人間的な知恵をもって妨げない限りにおいて<精霊様がわれわれの内で自由に働くことが出来るように配慮したとき>そこにすばらしい神様の業が具体的に為されるのです。そのことは、大学に職を持つ私にとっては実に刺激的なことでした。すなわち、いくら大学で熱を込めて学問の真理を語ったにせよ、感涙を流してまでその人の生き方がダイナミックに変化することはありません(あくまでも私の教師としての力量からとらえると、ですが)。しかしそれまで虚無的な生き方をしていた学生が神様からの愛をいただいた瞬間、『これが、かつてのあの学生か!』と思えるほどの鮮やかな変化を見せるのです。そうしたケースに実際に私はこれまでいくつも出合ってきたのです。」とも述べている また八巻は聖書の『ルカによる福音書』19章の中の「ザアカイの回心」を引用し次のように述べている。「心身に機能的な制限を有するがために、様々な側面でハンディキャップを甘受せざるを得ない人がいます。そして、そうした人たちのなかで『自分は体が不自由だから幸せになれないのだ!』などと叫んでいるような人は、何よりも神様から自分自身が<赦され、愛され、そして受けいられている存在である>との<まなざし>が欠落しているのです。だからザアカイのごとくに表面的・物質的な部分での保有をめざしたり、あるいは他者を恨み、攻撃することによって自分の慰めとしているのです。しかしこれでは何ら根本的な解決にはなりません。そうした破壊的な人の末路は、ついにはその刃を自己へと向けざるを得ないのです。すなわち自己破壊(破滅)しか残された道はないのです。」と、このように恐ろしいまでの預言を福祉の専門的な教会、ラブリー・チャペルの牧師として行っている。 過酷な牧師生活を八巻は「妻は大学の通信教育で学び、私は大学での仕事を抱えながらの牧会活動です。加えて弟の養育です。『今日は何をしようか?』などといったゆとりは一日たりともないような生活です。しかし何とも言えないような充実感があるのです。喜びがあるのです。」と述べている。 札幌キリスト福音館牧師の三橋萬利は「著者自らが牧会している『ラブリー・チャペル』は、その豊富な経験と、鋭い学究の論理と信仰の行動に基づくものであって、特異なキリスト教会として我が国キリスト教会の中で、その存在は大きいと思うのです。」とラブリー・チャペルのありようについて高く評価している。
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