キリスト教会堂
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/26 09:32 UTC 版)
この後の東ローマ帝国時代、パルテノン神殿はその機能を大きく変ずることになる。5世紀に入るとバンアテナイア祭は廃れ、同世紀末頃にはアテーナー・パルテノス像がキリスト教信奉者らと思われる勢力によって持ち出され所在不明となる。そして6世紀から7世紀頃、神殿は童貞女マリヤ聖堂に変えられ、コンスタンティノープル、エフェソス、テッサロニキに次ぐ4番目に重要な巡礼地となった。この改築で内陣の壁は一部が壊されて通路とされ、逆に建物東の門は壁で塞がれた。1018年にはバシレイオス2世が第一次ブルガリア帝国との戦争に勝利した記念に、パルテノン神殿に参拝するためアテナイへ直に巡礼した。中世には生神女聖堂とされた。 ラテン帝国の時代には、聖母マリア(en)のカトリック教会として250年間使用された。神殿は改築を受け、内部の円柱や胞室の壁の一部が取り払われ、建物の東端にはアプスが増築された。之に付随し、彫刻のいくつかが外されて行方知れずとなった。このように、神を祭る様式がクリスチャンのものへ変更される中、パルテノン神殿は破壊され、変容が加えられた。
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