ガザン・ハン即位と施政、その後
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「ガザン・ハン」の記事における「ガザン・ハン即位と施政、その後」の解説
1295年10月4日にガザンはバイドゥを討ち破り、イルハン朝の第7代君主に即位した。ガザンは即位にあたって公に「イスラームの帝王(Pādshāh-i Islām)」を自称し、ムスリム名として「マフムード・ガザン(Maḥmūd Ghāzān)」を名乗った。 これに伴い即位初年の勅令(ヤルリク)はイスラーム以外の主要建造物、すなわち仏教寺院(ブトハーネ、マウブード)、ゾロアスター教寺院(アーテシュキャデ)の破壊命令が発せられ、キリスト教会堂(キャリーサー)、ユダヤ教会堂(キャニーセ)もまたそれに続いて破壊を蒙ったという。既にテグデル・ハンの時代にテグデル自身も含めモンゴル軍民のイスラーム化の徴候が出始めていたが、このガザンの治世によって、イルハン朝は既存のモンゴルの国家体制や慣習などを維持しながらも国家規模のイスラーム化を推進していくこととなる。 さらに1298年、改宗したユダヤ教徒の一族に属するラシードゥッディーンを宰相にして財政改革やイルハン朝の支配体制強化に努めた。また、ガザンは1300年、ラシードにガザンの治世に至るチンギス・カン家諸王家と、フレグの遠征以来イルハン朝領内に展開していたのテュルク・モンゴル系諸部族の歴史をまとめた「モンゴル史」の編纂を命じた。これはガザン没後の1310年に次代のオルジェイトゥの命で再編集・完成して14世紀以降、イラン・中央アジアで最大規模の歴史書である『集史』となり、その後のオスマン朝を含むこれらの地域の歴史叙述に決定的な影響を及ぼした。これらの施政によって政治的・文化的にイルハン朝は大いに発展した。 1304年5月17日、34歳で病死した。遺骸はタブリーズへ運ばれ、生前タブリーズ郊外のシャンブの地に建設したガーザーニーヤという名のワクフ複合施設の廟墓に埋葬された。ガザンの後は、弟のオルジェイトゥが兄の指名通りハン位を継いだ。このガザンと後を継いだオルジェイトゥ2人の時代に、イルハン朝は全盛期を迎えたが、彼ら兄弟はいずれも寿命と在位期間が短かったことが、その全盛期を短期間で終焉させ、イルハン朝を滅亡へ導く一因となった。
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