ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還
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「エルヴィン・ロンメル」の記事における「ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還」の解説
詳細は「ガザラの戦い」を参照 これまでイタリアから北アフリカの独伊軍への物資輸送はマルタ島の英海軍・空軍によってかなり妨害されていた(1941年11月にはイタリアからの輸送船の44%が沈められている)。英軍がこれほどイタリアから北アフリカへの物資輸送を妨害できたのはドイツ軍のエニグマ暗号を解読していたからだった。英軍は北アフリカへの物資輸送船の発着地、出港時刻、積載物まで正確に掴んでいた。それを知らなかったロンメルはイタリア軍上層部に裏切り者がいるのではと疑っていた。そこでケッセルリンク元帥の指揮の下にマルタ島に独伊空軍による大空襲が行われ、結果北アフリカの独伊軍の補給状況はだいぶよくなった。 これによりアフリカの独伊軍の戦力が整い、ロンメルは再び攻勢に出られると判断した。一方英軍はガザラから内陸部ビル・ハケイムにかけて「ボックス陣地」と呼ばれる地雷原と鉄条網の防衛線を作っていた。ロンメルはこの陣地を南から迂回して陣地の東側を北上して海まで突っ走り、ボックス陣地を陣取る英軍戦力を後方の英軍機甲戦力と切り離して孤立させることを狙った。 ロンメルのアフリカ装甲軍は1942年5月26日午後2時にクリューヴェル中将率いる囮の部隊にボックス陣地に攻撃を正面からかけさせつつ、午後9時から「ヴェネツィア作戦」と名付けた迂回部隊の本攻勢を開始した。英軍第8軍司令官リッチー少将はロンメルがボックス陣地を迂回するであろうことは予想していたが、その対応は杜撰であり、戦車の数は英軍の方が独伊軍より勝っていたにも関わらず、前任者たちと同様に戦車を集中させずに各旅団に分散させて運用した。結果ビル・ハケイム付近の戦闘で英軍第3インド自動車化旅団は早々に伊軍アリエテ戦車師団と独軍第21装甲師団によって粉砕された。ついで英軍第4機甲旅団も独軍第15装甲師団によって粉砕された。 しかし圧倒的工業力を有するアメリカ合衆国の援助を受けていた英軍はグラント戦車や新対戦車砲6ポンド砲などを動員し、これらがドイツ軍戦車に大打撃を与えていた。また英空軍がドイツ軍兵站線を的確に空爆した。 5月27日夕方にはドイツ軍にとって事態は深刻となった。迂回部隊の海岸へ向けた進軍は行き詰まり、東では独第90軽師団が包囲されていた(第90軽師団は囮のつもりで東部から向かわせたのだが、ロンメル自身も後に認めたようにこれは失敗であった)。ドイツ軍は補給が途絶えて水がなくなり全軍崩壊の危機にさらされた。 ロンメルはガザラからビル・ハケイムに伸びるボックス陣地の中間部分を西から突破して東側に広がる地雷原を掃討して補給路を作る事を決意した。5月29日にロンメルは迂回部隊の主力をシディ・ムフタ周辺に集め、円形陣地を形成させた。彼はこの陣地を「大釜(ケッセル)」と名付けた。その地域には英第150旅団が円形陣地を構えていたが、6月1日にはこの円形陣地を攻略に成功した。 この後の戦いの焦点は大釜陣地の南方にあるビル・ハケイムだった。ここから補給路を攻撃されないように抑える必要があった。同地を守備していた第1自由フランス旅団(fr)は激しく独伊軍に抵抗した。伊トリエステ師団や独第90装甲軽師団が猛攻を加え、またドイツ空軍はここに爆撃を集中した。しかし第1自由フランス旅団は簡単に屈せず、ここでの戦闘は6月10日まで続いた。 その間の6月5日には英軍第8軍司令官リッチー少将が大釜陣地への総攻撃を命じた。英軍は砲撃に続いて植民地インドから連れてきたインド人歩兵部隊を前進させたが、ロンメルは対峙するアリエテ師団を後退させて誘い込み、包囲攻撃をかけてこれを撃退した。またこの英軍の攻勢中にロンメルは大釜陣地の南部の地雷原に間隙があるとの報告を受け、ここから独第15装甲師団を出撃させ、大釜陣地に攻撃をかけてきている英軍の左側面に回り込むことに成功した。この動きに連携して大釜陣地からもゲオルク・フォン・ビスマルク(de)大佐率いる独第21装甲師団が英軍を攻撃。これによって大釜陣地に攻撃をかけていた英軍3個旅団は壊滅的な打撃を受けた。 さらにロンメルは南の地雷原の隙間から戦闘団を派遣し、6月10日にはビル・ハケイムの北方の防衛線を突破。勇敢に戦った第1自由フランス旅団もついにビル・ハケイムを放棄して撤退を余儀なくされた。しかしロンメルはビル・ハケイムにこだわり過ぎたという批判がある。陥落に近づくにつれてビル・ハケイムは戦略的重要性が下がってきていたのだが、そのような場所を陥落させるためにドイツ空軍の急降下爆撃機シュトゥーカに甚大な損害を出したためである。とはいえこれにより独伊軍の補給線が南側から襲われる恐れは完全になくなり、独伊軍が英軍の退路遮断のための海岸への北進に安心して邁進できるようになった事は間違いない。なお第1自由フランス旅団はナチスの迫害から逃れてきた人々で編成されており、ユダヤ人が多かった。そのためヒトラーは第1自由フランス旅団について「戦闘において仮借なき戦いを遂行して殲滅しろ。殲滅しきれず捕虜にしてしまった場合は秘密裏に射殺しろ」という非情の命令をロンメルに下していたが、ロンメルはこの命令を握りつぶして部下に伝達しなかった。 ロンメルはビル・ハケイムを陥落させると直ちに全軍にトブルクへの攻勢を命じて北進させた。ビスマルクの独第21装甲師団は6月11日に大釜陣地を出撃し、6月13日までに英第4機甲旅団と英第22機甲旅団をほぼ壊滅させた。壊滅的打撃をこうむった英軍はガザラ防衛線「ボックス陣地」を放棄して敗走を開始したが、そのほとんどはドイツ軍の捕虜となり、また英国戦車はほとんどが鹵獲されるか破壊された。 英軍は生き残り兵を集めて部隊と陣地を作り、独伊軍のトブルク包囲を阻止しようとしたが、すでに英軍にまともな戦力は残っておらず無駄な抵抗に終わった。6月18日には独伊軍はトブルク包囲を完了。ドイツ空軍の空爆と砲兵の砲撃によってトブルク守備隊の戦意は崩壊し、6月22日にはトブルク守備隊は独伊軍に降伏した。トブルクの物資は破壊されることなく残っており、ドイツ軍がまんまと5000トンの物資と2000台の車両を鹵獲できた。 ガザラの戦いによる英軍の損害は甚大であった。英軍は9万8000人の将兵と540両の戦車を失ったあげく、キレナイカ地方全域を独伊軍に奪われ、更にエジプト領へ侵攻されることとなる。特に英軍の「抵抗のシンボル」だったトブルクが陥落したことは英独双方に精神的衝撃が大きかった。トブルク陥落によりチャーチルは庶民院から問責決議案を突きつけられている。ドイツではロンメルのトブルク入城が盛んに報道された。
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