ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還とは? わかりやすく解説

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ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 14:20 UTC 版)

エルヴィン・ロンメル」の記事における「ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還」の解説

詳細は「ガザラの戦い」を参照 これまでイタリアから北アフリカの独伊軍への物資輸送マルタ島英海軍空軍によってかなり妨害されていた(1941年11月にはイタリアから輸送船44%が沈められている)。英軍これほどイタリアから北アフリカへの物資輸送妨害できたのはドイツ軍エニグマ暗号解読していたからだった。英軍北アフリカへの物資輸送船の発着地出港時刻積載物まで正確に掴んでいた。それを知らなかったロンメルイタリア軍上層部裏切り者がいるのではと疑っていた。そこでケッセルリンク元帥指揮の下にマルタ島に独伊空軍による大空襲が行われ、結果北アフリカの独伊軍補給状況はだいぶよくなった。 これによりアフリカの独伊軍戦力整いロンメルは再び攻勢出られる判断した一方英軍はガザラから内陸部ビル・ハケイムにかけて「ボックス陣地」と呼ばれる地雷原鉄条網防衛線を作っていた。ロンメルはこの陣地を南から迂回して陣地東側北上して海まで突っ走りボックス陣地陣取る英軍戦力後方英軍機甲戦力と切り離して孤立させることを狙ったロンメルアフリカ装甲軍1942年5月26日午後2時にクリューヴェル中将率いる囮の部隊ボックス陣地攻撃正面からかけさせつつ、午後9時から「ヴェネツィア作戦」と名付けた迂回部隊の本攻勢開始した英軍第8軍司令官リッチー少将ロンメルボックス陣地迂回するであろうことは予想していたが、その対応は杜撰であり、戦車の数は英軍の方が独伊軍より勝っていたにも関わらず前任者たちと同様に戦車集中させずに各旅団分散させて運用した結果ビル・ハケイム付近戦闘英軍第3インド自動車化旅団早々に伊軍アリエテ戦車師団独軍21装甲師団によって粉砕された。ついで英軍第4機甲旅団独軍15装甲師団によって粉砕された。 しかし圧倒的工業力を有するアメリカ合衆国援助受けていた英軍グラント戦車や新対戦車砲6ポンド砲などを動員し、これらがドイツ軍戦車大打撃与えていた。また英空軍ドイツ軍兵站線的確に空爆した5月27日夕方にはドイツ軍にとって事態は深刻となった迂回部隊海岸向けた進軍行き詰まり、東では独第90軽師団包囲されていた(第90軽師団は囮のつもりで東部から向かわせたのだが、ロンメル自身も後に認めたようにこれは失敗であった)。ドイツ軍補給途絶えてなくなり全軍崩壊危機さらされた。 ロンメルはガザラからビル・ハケイムに伸びるボックス陣地中間部分西から突破して東側広がる地雷原掃討して補給路を作る事を決意した5月29日ロンメル迂回部隊主力をシディ・ムフタ周辺集め円形陣地形成させた。彼はこの陣地を「大釜ケッセル)」と名付けた。その地域には英第150旅団円形陣地構えていたが、6月1日にはこの円形陣地攻略成功したこの後戦い焦点大釜陣地南方にあるビル・ハケイムだった。ここから補給路を攻撃されないように抑える必要があった。同地守備していた第1自由フランス旅団(fr)は激しく伊軍抵抗した。伊トリエステ師団や独第90装甲軽師団猛攻加え、またドイツ空軍はここに爆撃集中した。しかし第1自由フランス旅団簡単に屈せず、ここでの戦闘6月10日まで続いたその間6月5日には英軍第8軍司令官リッチー少将大釜陣地への総攻撃命じた英軍砲撃続いて植民地インドから連れてきたインド人歩兵部隊前進させたが、ロンメル対峙するアリエテ師団後退させて誘い込み包囲攻撃をかけてこれを撃退した。またこの英軍攻勢中にロンメル大釜陣地南部地雷原間隙があるとの報告を受け、ここから独第15装甲師団出撃させ、大釜陣地攻撃をかけてきてい英軍左側面に回り込むことに成功した。この動き連携して大釜陣地からもゲオルク・フォン・ビスマルク(de)大佐率いる独第21装甲師団英軍攻撃。これによって大釜陣地攻撃をかけていた英軍3個旅団壊滅的な打撃受けた。 さらにロンメルは南の地雷原隙間から戦闘団派遣し6月10日にはビル・ハケイムの北方防衛線を突破勇敢に戦った第1自由フランス旅団もついにビル・ハケイムを放棄して撤退余儀なくされた。しかしロンメルはビル・ハケイムにこだわり過ぎたという批判がある。陥落近づくにつれてビル・ハケイムは戦略的重要性下がってきていたのだが、そのような所を陥落させるためにドイツ空軍急降下爆撃機シュトゥーカ甚大な損害出したためである。とはいえこれにより独伊軍補給線南側から襲われる恐れは完全になくなり、独伊軍英軍退路遮断のための海岸への北進安心して邁進できるようになった事は間違いない。なお第1自由フランス旅団ナチス迫害から逃れてきた人々編成されており、ユダヤ人多かった。そのためヒトラーは第1自由フランス旅団について「戦闘において仮借なき戦い遂行して殲滅しろ。殲滅しきれず捕虜にしてしまった場合秘密裏射殺しろ」という非情命令ロンメル下していたが、ロンメルはこの命令握りつぶし部下伝達しなかった。 ロンメルはビル・ハケイムを陥落させる直ち全軍トブルクへの攻勢命じて北進させた。ビスマルクの独第21装甲師団6月11日大釜陣地出撃し、6月13日までに英第4機甲旅団と英第22機甲旅団をほぼ壊滅させた。壊滅的打撃こうむった英軍はガザラ防衛線「ボックス陣地」を放棄して敗走開始したが、そのほとんどはドイツ軍捕虜となり、また英国戦車はほとんどが鹵獲されるか破壊された。 英軍生き残り兵を集めて部隊陣地作り、独伊軍トブルク包囲阻止しようとしたが、すでに英軍まともな戦力残っておらず無駄な抵抗終わった6月18日には独伊軍トブルク包囲完了ドイツ空軍空爆砲兵砲撃によってトブルク守備隊戦意崩壊し6月22日にはトブルク守備隊は独伊軍降伏したトブルク物資破壊されることなく残っており、ドイツ軍まんまと5000トン物資2000台の車両鹵獲できた。 ガザラの戦いによる英軍損害甚大であった英軍は98000人の将兵540両の戦車失ったあげく、キレナイカ地方全域を独伊軍奪われ、更にエジプト領へ侵攻されることとなる。特に英軍の「抵抗シンボル」だったトブルク陥落したことは英独双方精神的衝撃大きかったトブルク陥落によりチャーチル庶民院から問責決議案突きつけられている。ドイツではロンメルトブルク入城盛んに報道された。

※この「ガザラの戦いに勝利、キレナイカもトブルクも奪還」の解説は、「エルヴィン・ロンメル」の解説の一部です。
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