大正改訳聖書
大正改訳
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「大正改訳聖書」および「文語訳聖書」も参照 さて、明治訳を評価する声もあったとはいえ、完成直後から改訳の声が上がっていた。これは、明治訳が外国人宣教師たちの委員会による訳であり、不自然な日本語がまだまだ多かったこと、誤訳が散見されたこと、そして底本であった欽定訳も1885年に改訳され、改訂版聖書 (Revised Version, RV) が公刊されたことなどによる。その結果、様々な立場から改訳が試みられ始めた。そんな中、1906年に福音同盟会(日本のプロテスタント諸派の親睦組織)が教会同盟に改組されるのに合わせて、改訳のために委員が選出された。前出の外国人宣教師を中心とする聖書常置委員会や3聖書会社からもこれに協力していく意向が示されたが、教会同盟の正式発足が先送りされたことに対応し、結局は常置委員会が主導する改訳委員会が1910年に成立した。とはいえ、その委員はグリーン、ダンロップら外国人宣教師4人と松山高吉、別所梅之助、川添万寿得、藤井寅一の日本人4人となっており、最初から日本人が正規委員として関与した点で明治訳とは異なっている。新約聖書の底本としてはネストレ版のギリシャ語校訂版とされたが、当初は入手できておらず、暫定的にウェストコット・ホート版で代用された。また、その翻訳に際し、問題箇所の読みは RV を参照することに決められており、ほかにシェルシェウスキーの漢訳、前出のN・ブラウン訳、日本正教会訳(後述)、ラゲ訳(後述)なども参考文献とされた。この改訳作業では、まず試訳として『マコ伝福音書』(1911年)が刊行された。この試訳に対しては「マコ」を「マルコ」とすべきことなども含め、色々な意見が寄せられた。委員会はそれらの意見も参照して、1917年に新約聖書全体の改訳を完成させ、『改訳 新約聖書』として出版した。これは「改訳」、「大正訳」、「大正改訳」などと呼ばれる。 明治元訳に比べて学問的な正確さが向上したことはもちろんだが、漢文調から和文を主とする文章に改められ、漢語に無理なルビを振ることは避けられ、日本語として読みやすくなったことが評価されている。また、それまで一定していなかったキリスト教用語もこの訳で安定したとされており、教会外の人にも多く読まれた結果、「狭き門より入れ」のように日本語のことわざ同然に使われている文章も改訳の中には数多くある。成句が使用される頻度についてはその後の改訳聖書も及ばないとされており、「日本の文学作品として十分に古典の位置を占めている」とも評されている。 なお、明治訳も大正改訳もプロテスタントの翻訳であり、他のアジア・アフリカ諸言語同様に米国聖書会社、大英国聖書会社、北英国聖書会社の資金援助の下に行われた事業である。そして1937年に設立された日本聖書協会に聖書翻訳事業は引き継がれる。 旧約聖書は1942年から改訳作業が進められたが戦後に口語訳に方針転換されたので、大正改訳には旧約聖書は含まれていない。文語訳は口語訳聖書刊行後も愛好者が絶えないため、日本聖書協会は明治訳の旧約聖書と大正改訳の新約聖書を合本して『文語訳聖書』として出版している。この文語訳を再編した短縮版は筑摩書房の世界古典文学全集にも収められた(1965年)。旧約の編集者は関根正雄、新約の編集者は木下順治であり、注が適宜加えられているが、訳文そのものは削除のみが認められ、改訳は一切認められない編集方針だったという。2014年には『文語訳新約聖書 詩篇付』が岩波文庫に収められ、2015年には旧約も全4巻(「律法」「歴史」「諸書」「預言」の4分冊)で順次刊行された。 なお、日本聖書協会はプロテスタント系であり、その聖書にはカトリックが第二正典と位置づける文書は含まれない。ただし、日本聖公会はそれらを含む外典の一部を受容しているため、アポクリファ翻訳委員会『旧約聖書続篇』(聖公会出版社、1934年)が刊行されている。これは1961年に聖公会宣教100周年を記念してそのまま復刻されたが、その後に改訂され、『アポクリファ(旧約聖書外典)』(1968年)となった。改訂に際しては改訂標準訳(Revised Standard Version, RSV) が参考にされた。
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