大正後半~昭和初期
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新聞小説等の挿絵は、明治以降は浮世絵師・日本画家らの場であったが、大正半ば頃からは洋画系の画家が参入していた。通勢も、昭和以降は、大正半ば頃から手がけていた小説挿絵の制作で人気画家となって多忙となり、他方、油彩画の制作は滞った。 通勢の最初の挿絵は1920年(大正9年)の草土社展に出品した長与善郎の戯曲『項羽と劉邦』である。33枚の挿絵が入れられ、独特の真書(しんがき)という固い面相筆で描かれた線描が用いられている。採用されなかった下図・異稿も数多く遺されている。『項羽と劉邦』は代表作の一つであるが、『富士に立つ影』(報知新聞・1924年)、『旋風時代』(大阪毎日新聞・1929年)を手がけて以降、通勢への依頼が激増した。特に武者小路実篤と組む事が多く、『七つの夢』『気まぐれ日記』『井原西鶴』『金色夜叉』などで挿絵を制作した。 1921年に長野ハリストス正教会が廃止されているが、通勢の正教会との結びつきは途絶えず、1927年9月には正教時報の表紙絵を描いている。また、同年、日本木版印刷から『新錦絵今様歌舞伎四題』という木版画のシリーズを岡本一平、鳥居清忠、鏑木清方とともに発表している。1922年(大正11年)の長与善郎の『項羽と劉邦』の挿絵に始まり、1924年(大正13年)の白井喬二作の『富士に立つ影』の挿絵によって画名を高めた。 1924年の春陽会、1927年(昭和2年)の大調和会、1929年(昭和4年)の国画会に参加している。以降、没年まで所属していた。晩年、1941年(昭和16年)には大東南宗院に参加、本格的に南画を始める。水墨画の作品もかなりの数が遺されている。1945年(昭和20年)に武者小路実篤主宰の新しき村美術展の創立委員となり参加する。 1950年3月31日、肺炎により小金井市で永眠。埋葬式はニコライ堂で行われた。葬儀委員長は武者小路実篤。弔電は牧島如鳩によって朗読された。後年、1969年の通勢の展覧会に際し、武者小路実篤が通勢の早すぎる死を惜しむ文章を書いている。
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