大正後半~昭和初期とは? わかりやすく解説

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大正後半~昭和初期

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 23:11 UTC 版)

河野通勢」の記事における「大正後半~昭和初期」の解説

新聞小説等の挿絵は、明治以降浮世絵師日本画家らの場であったが、大正半ば頃からは洋画系の画家参入していた。通勢も、昭和以降は、大正半ば頃から手がけていた小説挿絵制作人気画家となって多忙となり、他方油彩画制作滞った。 通勢の最初挿絵1920年大正9年)の土社展に出品した長与善郎戯曲項羽と劉邦』である。33挿絵入れられ、独特の真書(しんがき)という固い面相筆描かれ線描用いられている。採用されなかった下図異稿数多く遺されている。『項羽と劉邦』は代表作一つであるが、『富士に立つ影』(報知新聞1924年)、『旋風時代』(大阪毎日新聞1929年)を手がけて以降、通勢へ依頼激増した。特に武者小路実篤と組む事が多く、『七つの夢』『気まぐれ日記』『井原西鶴』『金色夜叉』などで挿絵制作した1921年長野ハリストス正教会廃止されているが、通勢の正教会との結びつき途絶えず1927年9月には正教時報表紙絵描いている。また、同年日本木版印刷から『新錦絵今様歌舞伎四題』という木版画シリーズ岡本一平鳥居清忠鏑木清方とともに発表している。1922年大正11年)の長与善郎の『項羽と劉邦』の挿絵始まり1924年大正13年)の白井喬二作の『富士に立つ影』の挿絵によって画名高めた1924年春陽会1927年昭和2年)の大調和会、1929年昭和4年)の国画会参加している。以降没年まで所属していた。晩年1941年昭和16年)には大東南宗院に参加本格的に南画始める。水墨画作品かなりの数が遺されている。1945年昭和20年)に武者小路実篤主宰新しき村美術展創立委員となり参加する1950年3月31日肺炎により小金井市永眠埋葬式ニコライ堂行われた葬儀委員長武者小路実篤弔電牧島如鳩によって朗読された。後年1969年の通勢の展覧会際し武者小路実篤が通勢の早すぎる死惜し文章書いている。

※この「大正後半~昭和初期」の解説は、「河野通勢」の解説の一部です。
「大正後半~昭和初期」を含む「河野通勢」の記事については、「河野通勢」の概要を参照ください。

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