大正政変からその死去
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:49 UTC 版)
だが、第3次桂内閣の時に第一次護憲運動が起こり、これに対して桂は「桂新党」構想実現のための新政党(後の立憲同志会)を立ち上げて対抗しようとしたが、達成できないまま大正2年(1913年)2月20日、わずか62日で自身の政権退陣を余儀なくされた。 その後は病状が悪化し、6月には葉山、鎌倉に転地し、8月には一時容態が小康となり9月に三田の本邸に戻る。10月には脳血栓を起こし、10月10日の午後4時に死去、享年67。遺体は遺言により死後解剖され、「死因は、腹部に広がっていた癌と頭部動脈血栓である」と診断された。 葬儀は10月19日に増上寺で行われ、葬儀の会葬者は数千人にのぼり、8ヶ月前に桂政権を打倒したはずの民衆までも大挙して押し寄せた。
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