大正文化と旅館東屋
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鵠沼海岸海水浴場開設をきっかけに、海岸部に「鵠沼館」、「對江館」(待潮館ともいい、後に「中屋」となる)、「東屋(東家、あづまやとも)」という3軒の旅館が建った。その中でもとりわけ有名なのが東屋である。東屋は、鵠沼海岸別荘地を開拓した伊東将行が1897年(明治30年)頃開業した旅館で、斎藤緑雨、谷崎潤一郎、志賀直哉、武者小路実篤、徳冨蘆花、与謝野鉄幹・与謝野晶子、岸田劉生、芥川龍之介といった、明治から昭和の文人墨客が寓居・逗留し、執筆活動をした旅館である。彼らは当時の作品中に折々の鵠沼風物を描写し、それが「鵠沼風」と呼ばれて大きな評判を得た。「旅館東屋」は、そうした文化人の社交施設の役割を果たした。 日本画家でわが国初のフレスコ壁画を描いた長谷川路可は、東屋二代目女将たかの一人息子である。 東屋は1923年(大正12年)9月1日の関東大震災で倒壊し、翌年再建されたが、1939年(昭和14年)に旅館業を廃業した。現在、東屋跡地の一画に佐江衆一の筆になる「文人の逗留した 東屋の跡」という石碑が建てられている。 戦後になって1950年(昭和25年)から1995年(平成7年)末まで、伊東将行の孫で養子の伊東将治が旅館東屋跡から西方、鵠沼ホテル跡地に割烹料亭「東家」を開いていたので、旅館東屋と混同されることが多い。 詳細は「旅館東屋」を参照 1907年(明治40年)10月、志賀直哉と武者小路実篤は東屋において文芸誌「白樺」の発刊を相談した。後に武者小路実篤は短期間貸別荘を借りて生活し、同人の小泉鐵は鵠沼に借家して白樺の編集に携わる。すなわち鵠沼は白樺派揺籃の地といえるのである。 フュウザン会解散後、草土社を立ち上げた画家岸田劉生は、1917年(大正6年)鵠沼に借家して、その最盛期を暮らした。彼の代表作として知られる「麗子像」は、そのほとんどが鵠沼時代に描かれたものである。草土社に属する椿貞雄や横堀角次郎ら若手画家たちも劉生を慕って鵠沼での借家生活を始めたし、中川一政のように劉生宅の食客になるものもいた。彼らの多くは1922年に結成された春陽会にも加盟し、草土社消滅後も春陽会で活躍した。 江ノ電が開通した頃、鵠沼駅北方の砂丘一帯を所有し、豪邸を構えた高瀬家の離れに1911年(明治44年)秋から翌春にかけて滞在したのが、東京帝国大学文科大学哲学科在学中の和辻哲郎である。帝大文科大学の後輩で高瀬家の長男である高瀬弥一の薦めにより、鵠沼の静かな環境の中で卒業論文を仕上げるのが目的であった。論文を書き上げた和辻は、高瀬家の長女、照に求婚し、結婚する。1914年(大正3年)、和辻の先輩にあたる阿部次郎が高瀬家の離れに住むようになり、翌年は和辻哲郎夫妻が、さらにその翌年から安倍能成も別の離れに住んだ。彼らの鵠沼暮らしは1918年(大正7年)までであったが、時折「例の会」と称する牛鍋を囲んで談論する催しを、友人で夏目漱石門下の小宮豊隆や森田草平らを招いて開き、ここから「大正教養主義」と呼ばれる思潮が生まれた。 このようにして、文学の白樺派、美術の草土社、思潮の大正教養主義という大正デモクラシーの下での新しい自由な文化が鵠沼から発信された。その担い手はいずれも20代から30代前半の青年の集団であったこと、貸別荘などの貸家に住んだことが特色である。しかし彼らが鵠沼に永住することはなかった。
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