大正文化と旅館東屋とは? わかりやすく解説

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大正文化と旅館東屋

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 09:00 UTC 版)

鵠沼」の記事における「大正文化と旅館東屋」の解説

鵠沼海岸海水浴場開設きっかけに、海岸部に「鵠沼館」、「對江館」(待潮館ともいい、後に「中屋」となる)、「東屋東家、あづまやとも)」という3軒の旅館建ったその中でとりわけ有名なのが東屋である。東屋は、鵠沼海岸別荘地開拓した伊東将行が1897年明治30年)頃開業した旅館で、斎藤緑雨谷崎潤一郎志賀直哉武者小路実篤徳冨蘆花与謝野鉄幹与謝野晶子岸田劉生芥川龍之介といった、明治から昭和文人墨客寓居逗留し執筆活動をした旅館である。彼らは当時作品中折々鵠沼風物描写し、それが「鵠沼風」と呼ばれて大きな評判得た。「旅館東屋」は、そうした文化人社交施設役割果たした日本画家わが国初のフレスコ壁画描いた長谷川路可は、東屋二代目女将たかの一人息子である。 東屋1923年大正12年9月1日関東大震災倒壊し翌年再建されたが、1939年昭和14年)に旅館業廃業した。現在、東屋跡地一画佐江衆一の筆になる「文人逗留した 東屋の跡」という石碑建てられている。 戦後になって1950年昭和25年)から1995年平成7年)末まで、伊東将行の孫で養子伊東将治が旅館東屋跡から西方鵠沼ホテル跡地割烹料亭東家」を開いていたので、旅館東屋混同されることが多い。 詳細は「旅館東屋」を参照 1907年明治40年10月志賀直哉武者小路実篤東屋において文芸誌白樺」の発刊相談した。後に武者小路実篤短期間貸別荘借りて生活し同人小泉鵠沼借家して白樺編集携わる。すなわち鵠沼白樺派揺籃の地といえるのであるフュウザン会解散後土社を立ち上げた画家岸田劉生は、1917年大正6年鵠沼借家して、その最盛期暮らした彼の代表作として知られる麗子像」は、そのほとんどが鵠沼時代描かれたものである土社に属す椿貞雄横堀角次郎若手画家たちも劉生を慕って鵠沼での借家生活を始めたし、中川一政のように劉生宅の食客になるものもいた。彼らの多く1922年結成され春陽会にも加盟し土社消滅後春陽会活躍した江ノ電開通した頃、鵠沼駅北方砂丘一帯所有し豪邸構えた高瀬家離れ1911年明治44年)秋から翌春にかけて滞在したのが、東京帝国大学文科大学哲学科在学中和辻哲郎である。帝大文科大学後輩高瀬家長男である高瀬弥一薦めにより、鵠沼静かな環境の中で卒業論文仕上げるのが目的であった論文書き上げた和辻は、高瀬家長女、照に求婚し結婚する1914年大正3年)、和辻の先輩にあたる阿部次郎高瀬家離れに住むようになり、翌年和辻哲郎夫妻が、さらにその翌年から安倍能成別の離れ住んだ。彼らの鵠沼暮らし1918年大正7年)までであったが、時折例の会」と称する牛鍋囲んで談論する催しを、友人夏目漱石門下小宮豊隆森田草平らを招いて開きここから大正教養主義」と呼ばれる思潮生まれたこのようにして文学白樺派美術土社、思潮大正教養主義という大正デモクラシーの下での新し自由な文化鵠沼から発信された。その担い手はいずれ20代から30代前半青年集団であったこと、貸別荘などの貸家住んだことが特色である。しかし彼らが鵠沼永住することはなかった。

※この「大正文化と旅館東屋」の解説は、「鵠沼」の解説の一部です。
「大正文化と旅館東屋」を含む「鵠沼」の記事については、「鵠沼」の概要を参照ください。

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